1月にも整理したのに、また記事の整理をしてました。
半年に一度は過去の自分を抹消したくなるのでしょうか。

2008.07.18 
バタイユの『文学と悪』のジャン・ジュネの項にサルトルさんの『聖ジュネ』の引用があるんですが。先入観だけでサルトル嫌いなはずの僕が、非常に気に入ってしまった一節。
「悪の体験とは、存在を前にして、みずからの特殊性を意識にあらわにしてみせるコギト(一条註:デカルトさんの「我思う……」のアレ。多分、自己による自己の定義付けのこと)である。すなわち、わたしは怪物になりたい。暴風になりたい。人間的なものはいっさい、わたしには無縁である。わたしは、人間どもの設置した掟という掟には総て背反する。わたしは総ての価値を足下に踏みにじる。『存在』するものは何も、わたしを定義づける事も、限界づける事もできない。しかも、わたしは『存在』する。わたしは、いかなる生をも無化する凍てつくような息吹となるだろう」
一度目の『存在』はetre(英語で言うbe。生存するもの、とでも言うべきか?)、二度目の『存在』はexister(「実在」などの意。「価値がある」という意味もある)。日本語で言うと訳判んなくなるね……。まるで、『存在』するものは「わたし」を定義できないはずなのに、『存在』する「わたし」が「わたし」を定義づけている、という矛盾に陥っている様に見えるじゃないか。その矛盾を多かれ少なかれ孕んでいるのは事実だけど。それでも、後者は『実存(現実存在の略)』とでも訳せば良かったんじゃ……サルトルだし……とか思ってみたりみなかったり。
(しかし、これ、ジュネの理解に関して言えば、間違ってると思うよサルトルさん。)

ところで。何故この言葉が気に入ったかと言えば。
人間辞めたい……訳ではないとは思います願います。
が。僕の攻撃的な欲求を、そのまんま書いてくれた文章の様に感じたんです。
即ち、「化け物になりたい」。この言葉と「あの」沈黙のキメラになりたい。サイバネティック・オーガニズムになりたい(いやこれに関しては、多分、既に半分サイボーグでしょ現代先進諸国の中流以上の皆々様)。そして、生存するものたち総てを脅かす「他者」になりたい。
(しかしどういう心境の変化だろうね。非能動的な「化け物」である人形になりたい、という衝動から、非常に能動的な「化け物」である生命と機械の化け物になりたい、という衝動への移行は。)
まぁ。「化け物」だの「他者」などにならずとも、既に同族殺しに近い行為は出来ていると思うんですがね。実際、この社会を内側から食い潰してるのは、僕らだよ、と誰にともなく言ってやりたくなることがある。体制に従う事自体が既に、体制を食い潰す運動の中にいるようなもんだと、僕は思うよ? 体制自体が自己破壊的なんだもの。
まぁ、僕としては、そんなゆっくりまったりな自己破壊運動を加速してやりたいと願う所存で。
禁忌は犯すもの。秩序は乱すもの。体制は倒すもの。
禁忌や秩序といったものを敵対視する事は、その禁忌や秩序を強調し強化する行為を孕んでしまうのだけれど。

僕はこういう矛盾だらけのサディストですが、なにか。
嗚呼サドの『ソドム』をもう一度読みたいなぁ。

2008.07.17 
何だか、「耳にカビ」なんていう検索ワードでこのブログを引っ掛ける人が意外といらっしゃる様です。月一以上・週一未満の頻度です。みんな、そんなに耳にカビ生えるのか……??
まぁ……耳鼻科の常連として申し上げましょう。
気になるのなら、早めに耳鼻科へいってらっしゃい。
風呂・プール・海などから上がったら、ちゃんと綿棒できれいにしてあげれば、生え難くはなると思いますけれど。生えちゃった後、根本的に治療するには、ちゃんと取らないとダメでしょうね。別に放っておいたって、問題なく生きて行けますが。現に僕は途中で治療放棄……いやなんでもないです。
しかし、自力でどうにかしようとか思って耳掻きでごりごり擦ると、ろくな事になりません。鼓膜はそうそう簡単に破れるもんじゃないでしょうけれど、耳は繊細な器官です。聴覚だけでなく平衡覚も司っているところです。ヘタにイジると目眩も起こせます。
ですので、専門家に診て貰った方がベターです。もちろん、ヤブ医者には気をつけて。
それに、治療ったって、金属の器具でごりごり中を削られるような事はないはずです。やりよったらヤブだと言っても良いでしょう(とは言え、耳あか等のカビ以外のゴミを除去する際には、金属の器具でごりごりする場合もあります)。
少なくとも、僕が受けた二度のカビちゃん除去作業は(それぞれ大学病院と個人病院ですが)、どちらも同じ方法で、消毒液と綿棒でカビを取る、というものでした。
大学病院に通院してた頃は、中耳(鼓膜より奥)に生えてたんで厄介だったみたいですが、鼓膜に穴が空いてなけりゃ、中耳や内耳にカビが生えるなんてそうそう考えられません。通常は外耳でしょう。そういやぁ、綿棒じゃ巧く取れない、という事だったんですけど、アレは結局どうやって除去したんだろう。謎。鼓膜修復手術で耳をかっさばいた時、か?
個人病院に言った時は、鼓膜修復手術後なので外耳です。同様に綿棒でカビを取った後、点耳消毒液を処方されて、朝晩消毒をし、一週間後にもう一度来院、きれいになったか確認してもらう、という程度。費用もさしてかかりません。

別に、耳にカビが生えるなんて、決して珍しい事じゃあ、ありません。恥ずかしがる必要はありません。もともと耳なんて内部に水が溜まり易い構造をしてるんですから。
そういう訳で、気にする人は早めに耳鼻科へGO。

2008.07.15 
バタイユの『文学と悪』を読んでます。今、バタイユがマイブーム。
バタイユを読んでいると、ベルメールが「あいつは神を信じてるところが気に食わない」という様な事を言っていたのが何となく判ります(バタイユとベルメールは親交があった。というか、バタイユは主流派以外のシュルレアリストとは仲が良かった模様)。バタイユは無神論者だけれど、「聖なるもの」の関係における存在を知っていたというか信じていた様なので。ベルメールはどっちかっつーとサド・タイプだから、バタイユのそれが、ものたりなく思えたのでしょう。
閑話休題。
話を戻して。昨日。電車の中でバタイユの『文学と悪』を読んでて、思わず吹き出しそうになってしまった。
この人、屍肉喰らいだ。僕らと同じ、屍肉喰らいだ。
根拠は十分ではありません。もはや直観です。しかし、「批評」という行為そのものが、屍肉喰らいどものやる事に、非常に近い事なので。
ダダやシュルレアリスムですら、歴史屋や美術研究者という屍肉喰らいの餌食になる事によって、美術史なり何なりにおける位置をあてがわれ、評価される代わりに、正に「屍肉」に堕しました。生きてないシロモノに堕しました。
僕はその連中の、その屍肉喰らいの一味です。とうに死んで腐敗の始まったものを、喰らい続けているのです。僕はそれでいい。あれらの屍肉に愉悦すら覚えるから、それでいい。
そして、バタイユもその一人です。たとえ異端であろうとも、屍肉喰らいである事には変わりありません。

2008.07.11 
バタイユの『エロティシズム』読んでます。もう何回目だろう?(苦笑)
生の横溢、エネルギーの盲目的消費こそがエロティシズムの根底をなしており、それは小さいとはいえ『死』と出会う場所なんだそうですがね。生命は不連続にして死こそが連続性を保つらしいんですがね。連続性を志向する人間、というのはフロイトのタナトスの影響がありそうな感じですがね。そもそも性差別全開ですが時代が時代だから我慢しないとね。
あーあ。自分の外にあるものとして頭で理解して、いつもそれでオワリ。僕は一生、経験的な理解はできないだろうね。
マルキ・ド・サドもバタイユも、「他者と自己との無関係性」を強調してるし、僕はそっちの方が理解も実感もできる。「絶対に交換不可能な関係」は存在しない、と僕は思っている。この考えは、押し進めれば「他者と自己との無関係性」にたどりつく。
僕とバタイユ、サドとバタイユの差異はそこだな。
サドは他者を自己の外へ放り出していて、それだけに徹底した「絶対者」として、彼の小説の世界を築き上げる事ができたんだろう、と思う。彼はそこで、法の矛盾や詭弁性を嘲笑し、法を超える・絶対的な制度の必要性を叫ぶ。彼が作り上げた小説は、巌谷國士が指摘する通り、制度が徹底されている一種のユートピアとなっている。『ソドム百二十日』は典型ですな。しかし、フランス革命時・バスティーユ監獄陥落時『ソドム百二十日』の原稿が紛失し、血の涙を流したとか、バスティーユに入れられる前、別の監獄に居た頃、窓から外の人々にあれこれ訴えかけた事があったとか、「他者になにかを伝える努力」をしていた逸話を、バタイユはこの本の中で語ってます。バタイユが、サドを完全に他者を排除した絶対者ではないとする論拠はここ。
ちなみに、ドゥルーズ御大に「制度を徹底し、法を可能な限り撤廃するって、それはつきつめると無政府状態じゃん。」という分析もされてます。勿論、もっとちゃんとした言葉で。
ああ。聖侯爵語りが長々と続いてしまった。話を戻しましょう。
上記のように(?)サドは他者との依存関係を全否定するのですが、バタイユは、他者と依存関係を維持しないと生きて行けない事を、一応は諒解しています。
でもこの二つは次元の違う話のように僕は感じる。
サドは、「精神面」で絶対者となり、孤独であり得、故に他者を自己の外へ放り出せる。バタイユは、「即物的な面」で依存関係を維持しなければ、生きては行けないと言っているだけで、「精神面」ではやはり他者と隔絶された孤独があるように感じて仕方がない。これは飽くまで、主観的で確かな根拠の無いただの「感じたこと」ですけど。『エロティシズム』の中でちゃんと、他者との依存関係の必要性を語っているんだから、こう感じる方が間違いなのかもしれない。
だけどやっぱり。サドほどではなかったにせよ、バタイユは、その言葉や年譜や彼に関する他者の証言からすると、孤独な人だったようにしか、僕には受け取れない。めっちゃエリートだけどね。
ブルトン先生を弾劾する『屍骸』だっけ??なんかそんな名前の雑誌か新聞か。それに参加したのが不思議くらい、シュルレアリスム嫌いだったんだけど。それ以外にも、シュルレアリスム批判というよりブルトン先生個人攻撃、をたまに見かける。本当に嫌いなら、彼なら攻撃すら加えないだろう、完全に無視するだろう、と思う。もしかして、論敵という関係でもいいから欲しかった? でも『ドキュマン』って雑誌の編集やってたよなぁ……?

サドは「即物的な面」で、牢獄の独房という孤独に追いやられていたけど、バタイユは「精神面」で、多くの人と関わりながら孤独を感じていたのかもしれない。ただの憶測ですが。サドは物的精神的両面に渡って、他者と隔絶されてたんだし。
そういう、出口の無い絶対的な孤独の方が、絶対者になりやすいのかね。しかし、バタイユの「他者の中の孤独」も十分、出口が無いんだけど。
ただ、僕はバタイユよりサドになりたい。
他者を排除しきった絶対者になりたい。
しかし残念ながら、現在バタイユ寄り。泣けてくる。

2008.07.07 
いろいろとね。苛々する事が重なっているのですよ。
僕はたぶん吐き気がするくらいアンドレ・ブルトン大先生タイプ(普段の口先はご立派だけど、いざという時に反動的な発言が飛び出す)だろうなと思うんですけどそれでも僕はトリスタン・ツァラになりたいんです。
いっそブルジョワ根性の人ルネ・マグリットでもいいです。シュルレアリスト団体内の隠れダダっ子ハンス・ベルメールでもいいです。怖いお姉さんはちょっとイヤなので、レオノール・フィニは勘弁です。マックス・エルンストはエリュアールが助けちゃったから、ぎりぎりアウト。彷徨の人ポール・エリュアールは、気持ち悪いくらい女性賛美するしナショナリストなんで勘弁。
こうして考えると、僕はつくづくシュルレアリスト嫌いだな。ははは……。

ダダイストもシュルレアリストも、みーんなブルジョワ層出身です。みーんな、阿呆臭い古くさいカビ臭い体制の中に居たんです。それをぶちこわしたくて、できなかった人たちです。ダダイストたちはブルジョワの柔らかな迎合に屈せざるを得ませんでした。シュルレアリストらは19世紀の亡霊に憑かれてしまっていました。ダダのように途中で分解しなかったけれど、攻撃性は薄まっていってしまいました。それでも、1st・2nd両世界大戦を生き抜いた人たちです。二度も、いや、二種類もの形で「世界が壊れるところ」を、見せつけられた人たちです。だからこそ、体制を壊したかったんだと思います。
僕はそんなもんの中に産まれませんでした。傷跡も癒えてから産まれました。僕は「世界が壊れるところ」が見られませんでした。「世界が壊れたあと」も目にしていません。
しかし、三度目の、三種類目の「世界が壊れるところ」を、この先見られるかもしれません。
でもそのまえに、この体制が崩れるところを目にしたくてたまりません。いらいらいらいら。

けれども僕は、ブルトン先生と同じ決断をします。
「両手に拳銃を持って街へ出かける」という単純なシュルレアリスム・パフォーマンスではなく、「実際の生活」を生きるのです。
僕は、僕の大嫌いなブルトン大先生以上に腰抜けです。リアルに死に直結するので職に就く道を棄てる訳にいきませんし、ブルトン先生と違って同道してくれる友人は僕にはおりません。何故なら僕は僕の道に他人を引きずり込みたくない、のではなく、誰も僕の部屋に入ってこないでくれ、としか言いたくないから。
うーむ。どうもこりゃ、僕が望むのはツァラの生き方でもないな。かといって、ネルヴァルやる訳にいかないし……。
……そうか、あいつらだな。

「どうせ人間として生きて行かなきゃならないのなら、ユイスマンスかマルキ・ド・サドになりたい。」

こんなところだろう。
って、時代を思いっきり遡っちゃったよ、おい。

2008.07.01 
六月の読書記録

【美術】
鶴岡善久『夢の通路』沖積社 1986
  日本のシュルレアリストについてのエッセイ集。詩人中心。

【学問ぽい方面】
ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 晶文社 1973
  ドゥルーズ御大、さすが鋭い……。
  「サドとマゾッホ」ではなく、「マゾッホとサド」である事に注目。

上野千鶴子・小倉千加子『ザ・フェミニズム』筑摩書房 2005
  上野千鶴子と小倉千加子の対談。簡単に読めるが、理解は難しいと思われる。
  アオリに「決着をつけましょう……」とか書いてあるけど、つかないし、つける気もないと思う彼ら。
  だって「フェミニズムは一人一派」、とか言ってんだから、決着も何もないでしょ。

N.O.ブラウン『エロスとタナトス』秋山さと子訳 竹内書店1970
  心理学方面の学術的なフロイト批判。
  ちゃんと理解できませんでした。

マリー・ボナパルト『クロノス エロス タナトス』佐々木孝次訳 せりか書房 1992
  フロイト直弟子の論文っぽい何か。
  名前通り、あのナポレオンの末裔。
  内容は、まぁ……痛々しい。

森本浩一『デイヴィドソン 〜「言語」なんて存在するのだろうか〜』NHK出版 2004
  がっちがちの言語学。
  文体は平易に書いてくれてるのに理解が難しいのは僕が無能だから。

ミシェル・フーコー『知への意志』渡辺守章 新潮社 1986
  フランス流抽象思想全開。
  やっぱり理解できないのは僕が無能だから。

【小説】
倉阪鬼一郎『ブランク―空白に棲むもの』理論社 2007
  あっと言う間、2時間程度で読み切って、驚いた。
  しかも、「犯人」はなんとなく判ったし。
  400ページもあるのは水増しか。

神林長平『魂の駆動体』早川書房 2000
  ちょーオプティミスムなSF。
  ジジイが元気・強い・格好いい。
  パイワケットが欲しい!! 猫もバルケッタも両方!!

基本、二・三冊「以上」は平行して読むので、月ごとに区切るのはいつも難しいです。
そしてしょっちゅう内容が混ざります。頭の中で。


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2008.07.01