出たよエロス。これ返却する時も司書に対するセクハラになんのかなぁ。
竹田青嗣の『エロスの世界像』(三省堂 98)。(リンク先はハードカバー版で、絶版なのか、中古しか取れませんが、文庫版がコチラに。僕のレヴューよりよっぽど役立つレヴューが寄せられています)
目次を見て、「バタイユにも触れてる身体論か、役に立つかも」と思って読みました。動機はそれだけです。
バタイユ的エロティシズムと多少重なる部分もありつつ、しかし予想外の方向の話だったのですが、かなり面白い。
世界を認識する際の根源はエロス(快-不快)の原理である(必ずしもエロティックな意味ではない)、という軸を元に、様々な思想家の思想を批判・肯定・あるいは読み替えなどの吟味を加え、人間の認識がいかにして成り立っているのか、という事を論じております。しかし、批判・肯定は著者の主張である以上は必要ですが、読み替えに関しては注意した方がいいかもしれない。今後、この著者が引用した思想家の著書を読む際、用語を誤解する虞があるから。あくまで、「この著書では、このように使われている」という事を頭に入れておかないと。
でも、基本的に専門用語には簡単な説明を加えてくれてるんで、門外漢の僕でも、とても読み易いですよ。出典の記載もはっきりしてますが、註をつけての詳細な記載では、ありません。専門書じゃない感じだから、いっか。(しかし、先の『フーコー入門』は、入門書なのに、要らんところだけは詳細な註がいっぱいついてたなぁ……必要なところで註をつけないくせに)

主に、メルロ=ポンティの「心は身体によって意識され、事物は身体によって対象化される・認識可能になる」(逆に身体がなければ事物を知覚できても、認識したり解釈したりできない)という立場に近い様です。(僕はメルロ=ポンティの著作を読んでいないので、これはこの著者、即ち竹田青嗣氏のメルロ=ポンティ解釈を、さらに僕が解釈した言葉です。)
しかしコレ、最後の頃になるとひっくり返ってる場合が出てくるんですよ。身体の不可能性(欠損や疾患)によって初めて、身体が意識される、というような場合。
面白くて、著者の筆が走ってるなーって所は読み手もがんがん読める感覚なんですが、いつのまにか誘導されている気がするので、たまに立ち止まってみなきゃ危ないかもしれない。

認識についての論考に始まり、「禁止」によって聖性と穢れが創られる過程や、自我をエロス原理で解いてみたり、と結構幅が広い。というよりも、ちょっと前までの哲学が、その辺をあまりにも細分化しすぎていたのかもしれない。
身体の幻想性は、うーん、多少判ったつもりだけど、巧く説明できない。絶対、僕が説明したら歪む。

それにしても、この著作に引用される、「様々な思想家」が、すごい。
ソクラテス・プラトンからアリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、フロイト、ハイデガー、ソシュール、バタイユ、フーコー、果てにはデリダやバルト、ドゥルーズ、メルロ=ポンティ……思想家の大御所が目白押し☆
精神科医は唯一R.D.レインが出てきてるかな。(もー面倒だから、僕はフロイト大先生は思想家として扱いたいです。)
文学も引き合いにだしており、アンドレ・ジッドやスタンダールとか。あとロシア文学からの引用もかなり多いけど、僕はロシア文学は全く知識も関心も無かったので記憶にも残らなかった、ごめんなさい。
哲学の歴史をさらうのにも、ある意味使えます。エロス原理に誘導されないように気をつければ。

興味深いのは最後の方の近代ヨーロッパ的な二分法へのアンチ・テーゼ……じゃねーや、二文法的な世界、つまり客観主義的な世界観と、そうした区切りの恣意性を突いて合一を説く主観的な世界観との、アウフ・ヘーベン……じゃねーよ、うーん、何といえば良いんだ。
客観主義の世界も主観的な世界も、両者とも不完全な理論だけれども、どちらも必要である、というような見解。これは僕にとっては新しいもの。
僕は客観主義嫌いな論理好きだから、この著者の見解は、肌が合いそうで合わない、合わなそうで合う、そんな距離感。
でも、205ページ、「時間について(1)」で、合一論者の矛盾を突っつく最後の行、「哲学が『言語ゲーム』であることを知らないのである。」という言葉が格好良すぎる。ツァラの宣言のインパクトには断然劣るけれど、自らが「哲学」をしながら、それを「言語ゲーム」と言ってしまう、その自嘲が、自らを卑下しすぎず、それでいながら合一論者への皮肉も感じられて。うわー格好いい。いつぞやの哲学ヲタとは雲泥の差です。

しかし、ネックはエロティシズムの項ですな。
バタイユもマルキ・ド・サドも嫌いじゃないから別に構わないけど……僕、もともとエロティックな衝動って、実感がないんで……。何だソレ、てレベルではないけれど、自分の中にあるものじゃなくて、自分の外に在って、分析の対象とするものだと思っていて。だから、筆者の筆が走ってる、えらい熱意と実感と幻想がこもってるなー、と感じてしまうと、ついつい一歩引いてしまいます。
しかし、いつかは、その引いてしまいたい一歩をいい加減踏み出さにゃならんしなぁ……。
というわけで。
頑張りますけど頑張りますけど、僕はジェンダー学はかじってもいないはずですから、どうか、間違ってたら誰か助けてください。

「エロティシズム(3)」で語られている欲望の主体は、どうしても男性を想定しているようにしか読めない。
それというのも、「女性を美なり聖性なりを持つものとし、男性がそれを侵犯し辱める事がエロティックな幻想を生む」という方面からしか、語っていないから。ポルノグラフィーの消費者が、男性しか想定されていない。
一応、女性の言葉はあるにはある。サドの『悪徳の栄え』に登場する女性の台詞を引用している箇所がある。
しかし、いかに鶏姦・乱交なんでもござれなリベルタン文学とはいえ、この言葉を書いたのは、マルキ・ド・サドという男性である。特にサドの場合、その作品は別に売りたくて書いたものではなく幻想のはけ口なので、その登場人物は、サドの心情の代弁をしているだけ、という場合が圧倒的に多い。
やはり、男性の言説だけ、なのだ。
欲望するのは、男性だけなのか? 女性が欲望する事は、最初から想定外なのか? それはつまり、無言による禁止なのか? 女性は、何故、対象を欲望してはならないのだ?
著者のこの言説は、バタイユやサドを引用し、論じているからには斯くならざるを得ない事ではある。それは仕方がない。バタイユの時代は、まだフェミニズムが生まれたばかり、くらいの頃だから。
また、禁忌の冒涜と侵犯が、エロティックであるかどうかは別として、快楽となり得る事は、僕も肯定する。
それでも、女性側の視点や、ジェンダー学者の視点を導入しないのは、あまりにも不自然だという感が拭えない。特に、ここまで、多くの思想家の思想を引用してきたというのに、この項では、バタイユとサドだけなのだ。確認として記しておくが、バタイユは思想家として異端であり、サドは文学者ではない。そうした異端を援用していながら、今や立派にジェンダー学として成立している学問を、援用しない。
デリダを読みこなす人が、ジュディス・バトラーを読めないとは思えない。フーコーを援用して論を展開する人が、フーコーの『性の歴史』を読んでいないとは思えない。そして、ジェンダー・マイノリティを知らないはずがない。
何らかの恣意が働いているのではなかろうか?

僕はジェンダー学にはまだ足突っ込んじゃいないつもり。だから、細かい分析はできない。できない。できない。フーコーも斜め読み、バトラーも部分的に引用されたものを読んだ事があるだけ。だめだ。あまりにも装備が貧弱すぎる。
何かが、変だ、と感じる事しか、できない。


さてさて。また勢いで2000字以上書いてるよ……。まぁ人名がかなりの部分を占めてるから仕方ないか。それでも、この能力、他に応用できねーかなぁ、ほんとに。ESをちゃちゃーと書けるような、ねぇ?
ついでの戯れ言↓

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2008.05.30 
数日前、ネットで市立図書館に、市立の別の図書館所蔵の図書を取り寄せてもらうように予約を入れたのですが、今朝、ネットで予約状況の確認をしたらそれがまだ準備されていない。仕方がないので、その図書館にある本で使えそうなのをピックアップして図書館に出かけました。
ちなみに、「その図書館にある本で使えそうなの」は総て、開架ではなく書庫送りになっていたので、職員の方に書庫から取ってきてもらう事になるんですね。
……しかし、その数冊の本、総てタイトルに「エロス」という言葉が入るんです。エロス。えろす。Eros.
でも、まぁ、仕方がない。エロス関係の図書を何冊も取ってきてくれ、と一応身体的には女の僕が、男性職員に頼んだ訳です。その時点で誤解を生みそうで何だかすごくイヤですが、それでも、女性に頼み、頼まれた女性がエロスについて誤解していたとしたら、その女性が可哀想過ぎると思ったので……。
しかし、その仕事が、まぁ……女性職員に孫請けに出されまして。その女性職員が書庫担当か何かだったのでしょう……。
取ってきてくれた本を僕に手渡す際、その女性職員の、何とも言い難い表情が忘れられませんな……。トドメに澁澤の一冊は、表紙もエロティックな絵で飾られているしな。

しかし……これだけは言っておきたいのですが、僕が借りた図書で使われている「エロス」という言葉は、性的衝動や性的幻想の意味じゃない、人間の根源的欲求等の意味で使われています……プラトンとかの頃でいう「エロス」って、天上的なものへの愛って意味だしさ……現代の「エロス」の方が歪んでるんだよ、きっと……じゃなきゃ、泣けてくる。

2008.05.28 
今日は、精神科医との、微笑ましいと言うか下らないと言うか時間の浪費と言うか、な診察の第4回目でした。

こういう話に興味のある方は、追記をドウゾ。

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2008.05.27 
中山 元『フーコー入門』(筑摩新書)
入門者向けとしても、研究としても、どうしようもない一冊。ゴミ。クズ。著者の自己満足の一品。密林では大絶賛だけど、それこそ誤解の量産をしている証左。フーコー読め、フーコー。原著にあたれとは言わんから、この著者以外による翻訳のフーコーを読め。と言いたい。

・入門者に不親切なことに、基本的な専門用語の説明を一切しない。「哲学ってどんな学問?」って人には『実存』なんて言葉を、いきなり使われても理解できないだろうが。
・ある程度の知識がある人間には、非常に苛立つほどに、基本的な専門用語の定義が曖昧。『実存』って、誰の定義による意味で使っているのか、謎過ぎる。(読み進んで行けば、たぶんヘーゲルの使った意味での『実存』なんだろうなぁ、とは思うけど)
・誰の・何の引用なのか不明な引用がある。誤解を生むだろうが。
・「ウェーヴァーによって……」というよーな記述があったが、暗にウェーヴァーの『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』(以下『プロ倫』)を指し、「ウェーヴァーの『プロ倫』によって……」という文脈だと思われる。『プロ倫』を読んだ事のある人間、あるいはその役割だけでも知っている人間なら理解できるが、その辺すら知らない者には不親切すぎる。適切に出典、つまり「『プロ倫』からこういったことが読み取れる」という事をしめすべきだ。さもないと、『プロ倫』を知らない読者が参照できないだろうが。研究者として書くならば尚のこと、出典を明記しないと、それこそ下の下である。叩かれても文句は言えない。
・上記に似たような、「ある程度、社会学や哲学、歴史学の知識がないと判らないのではないかと思われる記述」が散見される。
・かといって専門的な話でもなく、斬新なフーコー解釈でもないので、ひどく中途半端で詰まらない。いらいらいらいら。

トドメ。
フーコーの主張なのか、社会で主流なフーコー評価なのか、著者の主張なのか、著者のフーコー解釈なのか、全く区別が出来ない書き方をしている。
これは、盗作にあたる危険性を非常に多く孕んでいる。少なくとも、フーコーの著書に触れた事なくコレを読む者に大きな誤解を与えかねない。

故に。読むに値しない。この著者は誠実でない。
50ページで読むの止めたよ。時間の浪費をしてしまった。悔しすぎる。
著者のフーコー理解・解釈について批評する以前の、至極基本的な姿勢と作法の問題だもん。耐えられない。
まぁもともと、フーコーの著作を斜め読み程度には読んでた人間が、概説書を改めて読んでみよう、なんて方がおかしいのか?(言い訳になるが、他者の解釈と自分の解釈を比較してみたかったから読んだ)

こっから先は、この本を読んでないと判らない批判。

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2008.05.26 
シュルレエルの世界、理性の届かない世界、「知」に対抗する「非-知」の世界……
踏み込めば踏み込むほど、耽美的な意味での「恐ろしいまでの美しさ」ではない「何か」、そんな地上的なもの以上のものを読み取ってしまう。
読む。
そう、読むようになった。
感じるんじゃなくて、読むようになった。何らかのコードを使って「読み取る」ということが僕の美術に対する姿勢になった。
僕は、以前は人形なんか怖くなかった。人形は、僕が解剖する対象に過ぎなかった。シェジェを超越するオブジェじゃなくて、ただの物体に過ぎなかった。
今は、人形が、怖くなった。
だから、人形について語る事すら、恐ろしい。

2008.05.21 
「僕は宣言を書くが、何も望んではいない。それでも、僕は何かを言う。僕は原則として、宣言には反対だ。原則というヤツにも反対なように。
 ひと呼吸する間に、対立する二つの行動が出来る事を示す為に、僕はこの宣言を書く。僕は行動には反対だ。絶えざる矛盾と、それから肯定には賛成だ。いや、僕は賛成でも反対でもない。そして、僕は説明しない。なぜなら、僕は良識が嫌いだから。」

トリスタン・ツァラ「ダダ宣言1918」より  

最強のダダっ子、トリスタン・ツァラの、矛盾と皮肉に満ち満ちた、ダダイスト「宣言」の一つ。僕はコレが大好きで。うーわーブルトン大先生が心酔する訳だ、と納得の一文。
本来的には、美術史をかじる者として、きちんと解説すべきなのかもしれないけれど、僕はそれを放棄します。コレだけは、「感じろ!」としか言いたくない。ダダって、良いよなぁ……。

僕も良識が嫌いです。
いくらでも説明をつける事ができますよ。「良識が、僕を規定して押さえつけるから」とか、「良識なんて、結んだ覚えのない社会契約に過ぎないから」とか、「良識なんてものは、時代や地域で違うもの、普遍的でありえないもので、納得がいかないから」とか、「ロジックとして美しくないから」とか。
でもそんなものは総て無意味でしょう。好悪の感情に理論を持ち込む事自体が、たぶん間違っている。仮に、普遍的な良識が創られたとしても、僕はそれをはね除けたがると思う。

それでも、「良識」ってものが存在しなくなったら、僕はきっと困るだろうってことくらいは判る。
この「社会的に肯定されるものがキライ、反抗したい」って気質は、「社会的に肯定されるもの」が存在しないと成り立ちえないから。常識とか良識とかのspiegelbild、歪んだ鏡像としてしか、僕の意見は存在しえない。コインの表裏。良識の存在を知っているからこそ、それに反抗できる・形作られる思考なんだよね。
しかし問題は、最近どんどんその辺が融解してきてるからなぁ、僕の中で。最終的に、論理として気に入れば良識的でも肯定するし、美学に反するという理由だけで個別的で異端的な話を蹴飛ばす事もあるし。何か、一貫したもの、を保たない。

もう一つの問題は、僕は非常にアカデミックなところがあるんですよー。「良識を嫌い抜き、反抗するには知性が要る」なんて言って、あれこれ調べすぎる・知ろうとしすぎる。それって、別の良識に飼いならされていくことでもあるし。それに、異端的文化であるシュルレアリスムの中の異端児ベルメールは、気質は職人と子供なんだよね、学者じゃなくて。ただ、そのせいでフロイト大先生に騙されてるところがあるような気がするんだけど。(フロイト先生に騙すつもりはないだろうから、うーん、ベルメールが誤解してるっつーか過大評価してるっつーか何て言うか。)

ただ、良識と異端と、どちらに付くにしても必要なのは、「誠実である事」だと思ってる。
社会っていう強固なものが形作っている・肯定している「良識」に楯突こうと思ったら、それ以上に強固な理論が必要で、理論が理論として成り立つには書き手が根拠を積み上げなけりゃならない。その「根拠」が曖昧でいい加減なものでは論理に破綻を来すから、誠実でなければならない。と、そゆこと。

どうでもいい・変なとこで潔癖だな自分。「論理」へのカウンターは「非論理」であるべきだ、とは思わない辺り、異端としてダメ過ぎる。いや、それもまた一つの論理に則っている。二項対立で物事を捉えているから。
バタイユ読まなきゃ。西洋的「知」へのカウンター、「非-知」。バタイユって飛躍しまくるけど一応は論理的だよね。二項対立で物事をとらえる、とか。結局は西洋的知性の人だったのかなぁ。ちゃんと読まなきゃ。

結局。突き詰めると僕って、良識的なんだよね。論理好きだから。
何この矛盾。矛盾は愛するところのものですが、こういう矛盾はイヤだ(泣)
つか、ツァラは格好いいよ、長生きしすぎてしまった事をのぞけば、格好良すぎるくらいだ……あの時代にモノクルとか(ぇ)

2008.05.18 
学科の友人に言われたんですが、「美術史って、何やってんの?」。
イヤミじゃなくて、純粋にどんな学問なのか、謎みたいです。同じ学年、つまり4年生ですぜ? 一度は美術史基礎の授業を受けた事はあるらしいのに、何でだーと思いつつ、えっらい適当に
「えーと。金髪・青い衣・赤いマントの女性の絵があったとするよ。その三つの特徴から、『カトリック美術』のコードを知ってる人なら、聖母マリアだって判る。逆に言うと、コードを知らない人はそれがマリアだって事が判らない。その違いは、聖書の知識じゃなくて文化的な背景なわけ。聖書にはマリアの衣服の記述なんてないから。」
「そんで、そのマリアが赤ん坊を抱いていたら、勿論その子はイエスなんだけど、そこから離れて、母性の象徴や理想の女性像として描かれ、『女性の在り方』を規定する場合もあったって言われたりもする」
「で、美術史でやってるのは、そのコードについて。各美術のコードは社会や文化のどんな状況の中で決まって行くのか、美術作品がどんな風に人の感性を操作したのか、とかを考えたり、逆に美術作品を通して、ある事物が当時どんな風に理解されていたのか、推測したりするって作業。社会史に近い感じ。基本、美術の理論っつーかコードで理解してくんで、感性要らん。感性が死に絶えてる理詰めの僕でも判る。」
「近現代美術は、それ以前の美術のコードとか文化とかをぶっ壊すのを目的としてるものが多いから、それまでの美術のコードを当てはめると意味不明になる。だけど、それぞれの様式独自のコードはある。ダダイスムの詩なんか面白くも何ともないけど、『言葉をバラバラに破壊し、言葉の共有によって成立する社会を批判しようとした』って説明を聞くと、文脈が多少見えてくるよね。社会背景を考えに入れると、もっと面白い事になるよ」
と説明したら、納得してくれて吃驚した。(でも『説明』や『解釈』って、常に後から付いてくるものなんだよね……)
具体例→抽象→具体例って、文章として美しくないなぁ。思いついた順に言うから仕方ないんだけど。
まぁ。良い説明ではないものの、基本は抑えたつもり。
しかし、友人が言うには、「初めて知った! やっと理解できた。面白そうじゃん。」

……。
…………。
先生、こういう説明してなかったのね、そういえば……。
基本的に、具体例をまず当たらせる授業だもんなぁ。学者として正しいし、やる気がある子は自主的に調べる事が出来る授業なんだけど……。
興味のないコや表面的な理解だけできればいい時には、非常に厄介な事態に……。

2008.05.17 
至極我流な珈琲蘊蓄。

カフェ・ケトル、買いました。
衝動買いです。\1980-の、かなりの安物。見た目についての言及はしません。機能美、機能美。すぐに焦げ付いても文句は言わない事にしましょう。

話は飛びますが、先日から、右腕に妙な感じの筋肉痛があるんです……普段の動作でそこが痛む事はないんです。でも触ると筋肉痛のアノ痛みがある。何故だろう、何故だろう、と思っていたのですが。
今日、やっと原因がわかりました。

ヤカンでドリップ→筋肉痛。

僕のうちにはカフェ・ケトルは無いんで当然、普通のヤカンで入れてた訳でして。
カフェ・ケトルとヤカンの違いは、注ぎ口だけじゃなくて取っ手の位置にもあります。典型的な日本のヤカンは取っ手が「胴の上」に付いていて、カフェ・ケトルは取っ手が「胴の横」についている。
取っ手が上に付いたヤカンに540ml(180×3、つまり珈琲3杯分)水を入れ、ゆっくり傾けて3分静止、してみてください(ドリップはゆっくりじっくりやりましょう)。3分って、意外と長いですよね。僕はこのドリップする時間に、無我の境地に達する事が出来るんじゃないかと思った事がありますよ。
んで。この姿勢、肘をかなり上に挙げねばならず、「太極拳か」といいたいくらいに筋肉を使います。イタイイタイ。
これが、取っ手が横に付いたカフェ・ケトルだと、あまり高く肘を挙げずにすみ、腕がかなり楽だったんです。そりゃ肘を挙げて数分静止、なんて姿勢自体がかなり筋肉を使う仕事ですので、疲労が全くなくなりはしませんが、ヤカンよりはずっと楽。
筋肉痛の原因が珈琲だなんて……リラックスするために入れるもので、疲労を誘発するなんて本末転倒もいいところ。嗚呼。

そうそう。筋疲労の話ばかりして、使い心地の話を忘れてました。
あれだけの安物ですが、流石にカフェ・ケトルの体裁は取っている、アノほそーい口だと、ほんとに静かにお湯を注げます。素敵。
しかし、今までヤカンの広大な口でドリップしてた癖が抜けないようで、注ぎ方がめちゃくちゃにヘタ!今日だけで2回もドリップしたんですけど、全然ダメですな。
最初に注ぐとき、うまく全体に湯を行き渡らせる事ができません。勿論、最初でそんなド失敗かませば、当然真ん中に穴が開きます。ヘタクソ。豆が、膨らまないぃ(泣)
やり方を変えた方が良さそうだ……精進します(凹)

2008.05.16 
SystemOfADown。ラテンな軽いノリでばっさばっさと社会批判をする、今時珍しいメタル・バンドです。(メタルじゃねーという説もあるけど)(もう最近の音楽をカテゴライズすんのは無駄だと思うし、面白ければ何でもよし) ノリは軽いがベースと歌詞は重い。いつだったか忘れましたが、グラミー賞を受賞した事もあったと思う。
今時ロックすら社会批判を忘れてんのに、頑張るなぁ。あ、2006年に活動停止してますがね。面白いですよ。4th?かな、"SystemOfADown"ってアルバムの頃には、音楽性は結構キャッチーな感じになってるけど、それでもメタルを聴かない人には多少重いだろうし、やっぱり社会批判は忘れない。
例えば、

何故大統領が戦争に行かない?
何故貧しい人を戦争に行かせる?

とか。(B.Y.O.Bより)

しかし、彼らを語る時に必ず言及されるのが、「彼らはアルメニア系のコミュニティ出身である」ってこと。そこから「アルメニア系は虐殺された歴史もある」→「故に社会批判の歌詞を書く」という風に理解する人が結構、いる。SOADファンでこういう記述する人も居る。
でも、これって、彼らを正当に評価していない、って事だと思うんですが。
彼らの歌詞に重みを加えるのは、彼らが置かれた環境じゃない、彼らの社会への意識の高さや誠実さといったもの。「こんな事は理不尽だ」って事を口にする勇気。(そして重すぎる問題を多少軽くさせるノリの良さ、とか言うと怒られるかな。でも重すぎる問題は、とても遠くに感じてしまうけれど、それが少しでも軽くなると、身近に感じられる気がします)
そりゃね。「民族虐殺が俺たちのプライドを総て奪った」とか歌ってますけどね。でも、歴史上迫害された経験のないコミュニティって少ない。戦争を経験していないコミュニティは殆どないでしょう。
そして、どのコミュニティに属していようと、社会批判をする人はする、しない人はしない。

「社会へ目を向ける、という事も、マイノリティだからこそできたんだ」とかいう反論は、それこそ論外です。
だって、「世界で唯一原子爆弾を投下された」という、めちゃくちゃ稀少でこの上なく非人道的な扱いを受けた日本で、それを踏まえた社会批判的な歌詞って、少なくとも現在のポップスやロックには無いでしょう? 僕が無知なだけか?
そりゃ、No More 広島!No More 長崎!等の運動があるのは勿論知ってます。でも、無名アーティストでソレやって売れた人なんて、知りません。既に売れてる人が、ソレやってたりしますけど。

SOADは、社会批判が強烈。それでも、アメリカでかなり売れました。
買う側の意識の問題もあるんかな。そもそも、日本で社会批判的な歌詞の曲が、どれだけ創られて、どれだけ売れてんだか。よく言われているように、日本ってその辺の意識が低いんかなぁ。考えてる人は考えてると思うんだけどなぁ……。

……僕自身が政治に無関心なくせに、偉そうな事を並べてみました。

追記:どんだけ寝ぼけてたのか、綴りを素晴らしく間違えてました。すみません……

2008.05.14 
えーと。ついさっき、禁煙失敗した一条です。
久々の煙草は……えっらいキモチワルイ。二度と吸いたくない。
ほんと、何考えてるんだか。

実は、PallMallのライトを吸ったんです。
PallMallはBritishAmerican社の煙草で、僕が初めて吸ったのは2005年? 当時、一箱250円でした。
最初、2箱、買ったんです。忘れもしません。間違いなくノーマルのとライトと、2箱買いました。
で、どんなメにあったか、というと。
……一日8本くらい吸っていたのが、一日2本まで減りました。体調が悪いから吐き気を覚えるのかな、と考えて1箱は吸ってみたと思うんですが、結局我慢できず、残ってた1箱は人に譲りました。
わからない、何故なのか全くわからないけれど、とにかくPallMallを吸うと凄まじい吐き気に襲われるんです。PallMallは赤マルと似た味がする、という噂もありましたが、赤マルでは吐き気を催す事はありません。つかそもそも似てないよ……。
別に、女の子煙草のようにケミカル臭がひどいって訳でもないし、僕はジダンヌとかの癖のある煙草を好むくらいだから多少の癖なんか気にしないし、そもそもPallMallは癖のある煙草じゃなくて割とスタンダードな味だと思う。別に不味いとはそんなに思わない、価格相応の味だと思うのに……。体に悪そうだなーって味で言ったら、ガラムとかの方が余程ひどいのに……。
原因は未だに謎です。含まれてる何らかの化学物質が体に合わないのか……?
今でもやっぱり吸えば吐き気を催します。
僕の周囲で、PallMallを好んで吸う人は居ませんが、別に悪評もありません。価格相応の味だね、って程度の話は割とよく聞きましたが。吸うと吐き気を催す、というのも僕一人です。ほんとに、謎。

そういう訳で、僕にとって禁煙への最終兵器、PallMall。
吸えば「身体の危機」を彷彿とさせてくれて、煙草が吸いたくなくなります……。

2008.05.12