『音楽と人』のSyrup16g、武道館ライブ後のインタヴューを読む。(立ち読み。他の記事に興味が無い)
とりあえず、がっちゃんが前向き……じゃないかもしれないけど、Syrupの活動を通して何かが変わったんだろうな、とにかく生きていてくれそうで、安心。だいぶ脱力してるみたいですけど……。

僕は同世代と音楽の話が殆どできないくらい、ズレたコです。Metallicaはともかく、Slayer好きだもんなぁ……。
でもSyrupは、ほぼリアルタイムで聴いてまし「た」。そうか、僕はDelayedとHell Seeの間あたりからSyrup聴いてるんだなぁ。
なんでSyrupが好きかっつーと。
第一印象が強烈だった。もう曲名は覚えちゃいないけれど、夜にラジオを聴いていたらSyrupの曲がかかって。「暗いどろりとした水の中で、目を伏せて互いから目をそらしながら、ほんの少しだけ指を絡め合わせる男女」というイメージが、突如として浮かびました。その印象が鮮烈すぎて、これは聴かねばならんだろう、と。曲の終了後、DJがバンド名と曲名を言うのをメモり、その際、Hell Seeがリリースされる話題が出てたからそれもメモり。
しかしこの暗い水中のイメージ、いまだに謎です。というのも、以降Coup'd tat、Delayed、Hell See、Mouth to mouseと聴きましたが、同じイメージの浮かぶ曲、即ち「あの時の曲だと判る曲」が無かったんで。まぁ……シングル買ってないから、そっちに入ってるんだとは思いますけど。我ながら記憶の曖昧さが情けない。
それから。歌詞を見ていて、変に共感してしまう。本来的には、安易な共感を拒むような孤独で個別的な感覚に満ちている、と感じるんですが、ついついその安易な共感を覚えてしまう謎。
歌っている内容自体は、ありふれているのかもしれないけれど、その表現の仕方やそこに詰め込まれた言葉が、非常に個別的。そこで語られるべきはそこで十分に語られている、と感じる。絶叫に近い声すら含めて、ですが。
曲調はもう、やる気の無さというか、ゆったりした感じというか。どろっとした感覚はありますが、Aliceほど絡み付いてきはしないですよ。Alice in Chainsはレインの麻薬的なボーカルが絡み付いて、耳を放さない。
あーと。技術的には、ドラムがまぁまぁ巧いなぁ、と思うけど……3ピースっつー最小限の構成だし、HR/HM好きには微妙……。えーとBumpっぽい。歌詞はBumpと全然違うのに。

あー脱線しましたー。ほんとはSyrup解散の話を執念深くするつもりだったのにw
まぁ……彼らがやるだけやって、満足して活動を終えるのならば、歓迎です。彼らが商業的に成功する事を望んでいたのかどうか、いまだに疑問に思うが故に。
彼らに自己を投影する、安易な共感が惜しいが故に、彼らに活動を続けてほしい、というのはかなり無茶な話。彼らの方が、部屋の中でうずくまって曲を聴いているだけの僕らよりずっと、何かに追い立てられ追いつめられているんじゃないのかな。
もしそうだとしたら、そんな自己破壊的な事、しなくていい。きっとそれが破壊するのは、自己だけじゃないと思うから。と言いたいくらいの強度で、僕はその「安易な共感」を覚えるんですよ。
ああ輪っかになった?w

2008.04.30 
壊したい壊したい壊したい。形あるものは要らないから、何も。だから総てを壊したい。それらの総てを、僕が壊したい。壊したい。僕に必要なのは、細分化された・断絶した・孤立した、それがゆえにオブジェクティフな要素。オブジェが必要なんだ。
何かを再生させるのも、何かに意味を与えるのも、どこかのブルジョワ紳士さんにお任せするよ。どうぞシュジェの世界へ。
僕はひたすら壊して壊して総て壊して、その瓦礫と屍骸の山から、硝子片と白い骨の粉だけを拾い集めよう。僕に必要なのはきっとそれだけ。
僕はそれで絵を描くんだ。でも、その絵は「何も意味しない」。
それだけ。ダダイストになりたい。

2008.04.28 
ジェンダーをやる人……あ、いや、一般的にはフェミニストと読んだ方が通じ易いかな。でも「フェミニスト」って言葉も、「むやみに女性を甘やかす人」という認識や「女性の権利をヒステリックに叫ぶ人」という認識が一部にあるから、語弊があるなぁ。
うーん。「性差別のない社会を目指す運動をする人」。これなら問題ないだろう、きっと。女性も男性も含む定義だし。よし。
そうした「性差別のない社会を目指す運動をする人」をジェンダー学者とか呼んでいます、僕らは。……本題のための定義に入る前の定義かよー。なんて厄介なんだ。でもコレ無しには話が誤解されかねないから仕方ないか……。
で、そのジェンダー学者さん達は、肉体的な性的アイデンティティをセックス、精神的な性的アイデンティティをジェンダーと呼びます。今回は僕個人のその辺の話です。

「一条俊也」なんてペンネームを高校時代から使い始めたので、そのままハンドルネームも「一条俊也」で来ていて、そのついでというか流れで一人称も「僕」を使っていますが、一条は肉体的には女です。これは、いかに頭がコワレていようが、最長6ヶ月無月経だったこともある月経不順であろうが、決定的な証拠があるから仕方が無い。
続けて「精神的にも女です」と書きそうになりましたが、書きたくありません。かといって「精神は男で肉体的にも男になりたい」とは思っていません。同時に、女である事もイヤでたまりません。
何故、精神的アイデンティティを肉体的アイデンティティに規定されねばならんのだ、と思います。

えーと、理由がいくつかありますけど、よりふつーな方から挙げていきましょうか。
現在、僕は就職活動とバイト以外の日は卒論用の本でも読んで家でヒキコモってるニート予備軍であり、両親は共働き、兄も祝・ニート脱出で仕事をしている今、家事を押し付けられるのは、まぁどう考えても僕でしょう。「家族とは支え合って生きるべきコミュニティの最小単位である」という命題に従えば、まったくもって納得のいく話です。
が。父は運送業という波のある仕事をしているため、2・3日ヒキコモっている事があるのに、そういう日も総てが僕に回ってくるのは何故だろう、と。そして、兄も休日には家事を手伝うなんて話は聴いた事がありません、我が家では。ヤツは暇さえあればネトゲ廃人です。
家事は結構、力仕事です。「家の仕事は女がすべき」という命題に従うなら、僕はそれを行うべきでしょうが、「女は非力だから男が守ってやらなくてはならない」という命題をあげるなら、前の命題に相反します。納得いかない。
古い原理主義的な理論だとしても、理論として美しければ納得いくんですけど、これじゃぁムリです。

理由その2。つくづく女は搾取される側であるなぁと思い、それ故に「少なくとも女である事は嫌だ」と感じるのです。性的な話で。
14から22までの、たかだか7年程度の間に、痴漢やら何やらに3回くらい遭遇。付き合った男性とも何だかロクな事態になっていないと思う。そりゃ、自滅的な行動をとる僕にも責任はあります。頭が弱そうなヤツは襲われ易いという論理も理解できます。
でも、「無差別に襲ってないで彼女作れよ!」「彼女いないなら、せめて金で買え!(注・非常に宜しくない発言だと自覚はしているけれど、本心)」「理性は無いのか、理性は?!」と思う。つくづく。
女って弱くて脆くて、狩られる側・何かを奪い取られる側なんだな、と思ってしまった訳です。そしてその時、助けを求めて叫んでも、誰も助けてはくれない。もう嫌だ。
(その延長で、恋愛と売春の違いが未だに良く判らない。搾取されていく事に変わりはないし、間に発生するのが愛という妄想か、金銭という妄想か、の違いしか無いように思える。)
かといって、逆に搾取する側には、絶対なりたくない。死んでも嫌だ。その姿が、どれほど浅ましくて恐ろしいものか、判ってるんだろうか。
こういう事さえ無ければ、「精神的アイデンティティは、女っぽくないけど一応は女」でもいいと思ったんだけどなぁ……。

理由その3にして最大の動機。
肉体が嫌い。
肉の感触がイヤ。体液がイヤ。性的欲求は無に等しい。摂食活動がイヤ。有機物だという事がイヤ。呼吸がイヤ。睡眠だけは欲しいけれど、何も知覚しなくなる最高の眠りが欲しい。
無機物がいい。物体になりたい。できれば金属がいい。感覚器官の無い有機物ならそれでもいい。人形になりたい。どうしてもと言うなら、有機物でも良いけれど、その屍骸が譲歩の限界(動物なら骨とか。木材とか)。
知的好奇心だけが今の僕の生き甲斐だけれど、物体になれるのなら、そんなもの失って全く構わない。
つまり。精神も肉体も要らないから、アイデンティティも必要ない。

以上。
1、2は表面的な理由ですな。肉体的アイデンティティによって精神まで規定される立場に、散々立たされてきました。誰しもがそういう立場に立たされている事と思いますが、僕はそれが不愉快でなりません。他の人々は何故こうも簡単に、肉体的アイデンティティに精神的アイデンティティを従属させてしまうのか、判りません。
そもそも、「肉体的アイデンティティ」って、何だソレ。この文章中で使った意味としては、「社会的アイデンティティ」の方がより適切だろうに。肉体的アイデンティティなんて、「人間である」だけで良いと思います。
いや、できれば肉体的アイデンティティも精神的アイデンティティも、男でも女でも人間ですらなく、「人形」でありたいんですが。

2008.04.27 
シュルレアリスムに関して、有名な文句の一つと言えば、ロートレアモンの

「ミシンと雨傘の手術台上での偶然の出会いのように美しい」

ではないかなぁ、と思うんですが、コレ、ゆ、有名……です……よね??(シュルレアリスムの理解のされ方はいつも間違ってるとは感じてますが、最近、知名度そのものも心配になってきました……)(追記:かなり知名度が低い事が判明しました……orz)

あ、で、こやつの理解の詳細については、僕ごときが説明したってどうせ誤解を生産するだけなのは判りきっている事なんで、割愛割愛。(巌谷國士先生の『シュルレアリスムとはなにか』が初心者だけでなく、初心を忘れた人間にも適しているかと思われます。つまり僕)
とりあえず、シュルレアリスムとは、物体Aと物体Bを、本来ありえない場所に配置する事や無意識の働きに任せて配置する事などによって(物体にとらわれない自動筆記や夢解きなどの方法もある)、それらの物体がまとう文脈を断絶させ、そうすることで主観を排した客観的な現実、より強度の高い現実(これがほんとの意味でのシュルレエル)を探りだす、という運動なんだーって感じでなーんとなく判ってくれたらそれで嬉しいです。

それではやっと本題に入りませう。今読んでいる本、『ダダ・シュルレアリスムの時代』(菊池明郎 筑摩書房 2003)なんですが。
その端書きで、9.11テロ事件について言及しておりまして。
「シュトックハウゼン氏があの事件を『美しい』と言ったのは、こういう意味だったのではないだろうか」という話をしています。勿論、そのまま理解しないでください、文章も文脈も違います。
ポール・ヴィリリオという現代アートの作家を引用して、「飛行機を造り出した文明は、飛行機事故を生み出さずにいられない。事故という現象は現代生活の本質的要素の一つ、あるいはコインの裏と表。とりわけ、世界が『全面的事故』の時代を迎えた今日、事故こそはもっとも現代的な思想のテーマのひとつである。」ということを訴えています。(ただし、これは僕の理解であって、本文をちゃんと引用していない)
僕自身はコレに関して、あーそうなのかー、とかなりいい加減な理解ですが。
ただ、9.11事件を「美しい」と言った人の存在を、実はこれによって初めて知りました。事件当時、僕はテレビを所有していないからだと思うんですが。しかし、それでも瞬時にして崩壊するツインタワービルの映像は、鮮やかなまでに覚えている。(一体どこで見たんだろう……)
その映像を見て僕の受けた印象は、攻撃的な芸術作品を見た時のそれに非常に似ている。圧倒される、総てを剥奪されて呆然とする。そしてただただ、名付けようの無い感情が横溢する。
その、「ボーイングとツインタワーとのマンハッタン島上空での偶然の出会い」を、兄は「映画のようだった、というより、映画だとしか思えなかった」と評していた。リアリティに乏しいのではなく、現実として受け止める事の出来る範疇を越えていたからだと思う。現実に生起しているんだから、これ以上のリアルは求め得まい。
「現実として受け止める事の出来る範疇を越えた現実」
嗚呼、あの事件はなんてシュルレアリスティックなんだろう。ファースト・インプレッションに於いても、思想に於いても、確かに美しい。
だから、あの事件を「美しい」と言った人の感性も、一概に悪いなんて言えないし言いたくないし言われると僕も非難されている気がする(被害妄想)。
むしろ、悪いと言う人の方が、不思議な気がする。現実と、芸術というある種のフィクションとを混同するな、という事ならば理解できますけど。……それにしたって、あの映像をいきなり見せられて、現実だと判断できる人間の方が少ないと思いますが。
そういう非難ではなく、「たくさんの人が死んだ事件を『美しい』だなんて言ってはいけない」という非難は、「事実をある倫理観のみに照らし合わせて印象を断罪する」なんていう混同と押しつけをしている。印象と事実は別次元の話。そんないい加減な根拠で非難するんだったら、それは筋違いも良いところ。価値観を押し付ける方が、9.11事件を「美しい」と評するより余程、人権侵害だと、僕は感じる。
だって、「美しい」という言葉を吐いて、誰の尊厳が傷つく?あの映像を美しいと言う事は、人の死を美しいと言う事とは、全く違う次元の話なんですが。つか、人の死を美しいと表現するのは倫理に反するというのならば、文芸・絵画・彫刻・映像・映画などのたくさんの芸術作品やTVのプログラムが、人の死を扱い、美しいと感じるように描き出している。それでもそれらは、滅多に批判されない。そこんとこ、矛盾していないか?
あー、それとも、感じたままを口にするのがいけないと。そういう事か。民主主義って、いつから言論統制するようになったの?

2008.04.27 
大丈夫。
いつもと一緒。いつもと同じ。
ただ、人間としては壊れているかもしれないけれど。
大丈夫。まだ、動く。
でも、人形になりたい。
物体になりたい。無機物になりたい。

だいじょうぶ、わかってる。
呼吸をやめても、食を断っても、人形にはなれない。

人形になりたいから、眠り続けたい。
人間で居なければならないなら、眠りたくない。
死にたくはない。
死ぬのは生き物だけだから。
世界と関係を持ちながら意識だけは失いたい。
物体になりたい。

2008.04.19 
呼吸しているけれど生きていない。
虚構の世界に在っても、それは生きているなんて言えない。
だから、神もデカルトも死んだ後に生まれた僕は、生まれながらに死んでいる。
僕は他者によって想像された存在。

いつの間にか、熱が出てた。体重が減ってた。胸が痩せてた。増えたのは、鎮痛剤を飲む回数。
肉体だけは現実のよすがだとしたら、この苦痛こそが僕の存在証明。
けれど、僕はこの肉体すら幻想の産物だと思っていて。苦痛すら現実感を失い、溶ける。

人形になりたい。

2008.04.17 
先日、病院に行くついでに、某神社の参道の傍にある、やたら品揃えの良い煙草屋によりました。(Davidoff、シガーも含めて全部揃ってるって!)
しかし……見ると、タバコ屋の自販機の上に、手書きの張り紙がでかでかと。
路上喫煙禁止反対」と書かれている。
きんし・はんたい。禁止に対する反抗である。
なんか言葉として美しくないような気がひしひしとするのだが、真っ当に現状を述べているのも亦事実だなぁ……。嫌煙家の皆様なら柳眉をつりあげたり、怒髪天を衝いたりするのだろう(いやまさかそこまでは怒るまい。と願う)けれど、喫煙者には納得の一言である。
だって。路上だって、人通りの多くない場所を選び、人に煙草の火を当てるなんてのは論外で煙にも出来るだけの配慮をし、灰や吸い殻を適切に自分で処分する範囲であれば、つまりマナーさえしっかり守っていれば、全く悪いことだと思えない。
農耕車しか走らないような田んぼ端の「路上」で喫煙して、何が悪い。むしろ室内での喫煙の方が、煙がこもってよほどキツイわ。僕は喫煙者だけど他人の煙草の煙は大嫌い。

たまたまというか何というか、店主のおじさまが丁度店から出るところだったので、「素晴らしいです、コレ」とその勇気を褒め称えました。そして、煙草からの市の税収が35億円にのぼる、喫煙者はこれだけの税収を生み出す層なのであるから、権利を主張して然るべきだ、というお話を伺いまして。(ちゃんとその事も張り紙に書いてありました)
うんうん。何だかちょいと矛盾がある(この論理じゃなくて、行政の態度に。)んで、なるほどー、と。だって、煙草による税収が減ったら、行政は切実に困ると思う。将来、肺癌・肺気腫などが減って、健康保険料が安く上がるようになるとしても、それまで大変だよー。なんだかんだ言って、病気をしない人間は居ないから健康保険料がそう簡単に減るはずも無いし、煙草吸っていても長寿の人はいるし。まぁ、リスクは減らした方がより良いとは思いますけど。(日本語が変だ。betterであってbestかどうかは謎だな、って思うだけです)
でも、それだったらこれまで社会的に喫煙を肯定してきたんだから、公然と簡単に手に入る麻薬を国が販売してたんだから(JTは日本煙草という国営企業だった)、それを否定する時にはそれなりの補償があるべきでしょう。喫煙者の大部分は、社会によって麻薬漬けにされたとも言えるんだから。(誰か他人に勧められずに吸い始めたって人、あまり居ないように感じます。少なくとも僕の周囲では。僕自身は、誰にも勧められずに手を出した愚か者ですけれど。)

まぁ。そういう訳で、煙草税の収入をあてにせず、かつ喫煙者らに禁煙外来を受けられるように補助をする、そんな余裕があるんだったら、どーぞ煙草の販売を停止しようがなんだろうが、僕は構わないんですが。しかし現状を見る限り、あの火の車じゃムリだろーね。
むしろ、本気で喫煙者に煙草をやめさせようと思うなら、じわじわちまちま税率をあげてないで、補助等で禁煙のメリットを示し、煙草の販売を縮小化させていく方がbetterだと思われ。
じわじわ税率をあげていかれると、結構インフレに気づき難くなってく。以前の価格を忘れていっちゃうんです、結構。だって、JPSは僕が初めて吸った時には270円、今は300円。僕は3日で一箱吸うから、ひと月に換算すると300円ちがう、ほぼ一箱分に相当。それでも普通に買ってしまってるんです。
……なんだか、行政は喫煙者を減らすためではなく、喫煙者から搾り取るために税率を上げている気がしてきました。PhilipMorrisの手口に似てますよ、買わずにはいられない人を狙って売りつけるって。

2008.04.12 
真面目な話をしようとすると、血圧が上がりそうな今日この頃。特に狂気の話題とかね。えと。医師が僕を診断するのはまあ仕方ないと思う。現在ある程度肯定されてる治療を受けるのに必要な過程だから。(所詮、対処療法じゃん、と思うんですけど、やらないよりは楽だし。)
えーそれでも基本的に、狂気に対して常人の判断を差し挟んで頂きたくないと常々思うのです。僕は執拗なまでに「心を病んでる」と言いません。頭が壊れていると言う。簡単に直る(not 治る)と思えないし、病気じゃないと思ってるから。そのヒネクレ根性の元凶のひとつをご紹介。
岩波の「一冊で判る」シリーズ、『狂気』(ロイ・ボーター 岩波書店 2006)。
いや、こんな難解な問題が「一冊で判る」はずが無いし、ぶっちゃけフーコーとか読んだ方が楽しいですけど、このように問題を絞って簡単にまとめた物も、たまには良いなと思います。本文200ページ足らずの小品としては、とても良く出来ています。元はオックスフォード大学出版局の為に書いたそうで。さすが。

さて中身。最初に言いますが、狂気を「捏造された物である」と言ってるような類いでは、ないです。トマス・サズの『狂気の捏造』を紹介はしてますけど、あくまで「このような見方もある」ってスタンスで扱っています。
そして、著者が最初の方で書いてますけど、「ヨーロッパ圏で狂気がどのように扱われてきたか、どのように理解されてきたか」に問題を絞ってます。
たくさん図版を挿入することで、狂気が社会的にどう見なされていたのか、ということを示しつつ、様々な「精神医学」の試みについて概説的に、ざーーと歴史をさらう。材料を並べまくって、「精神医学とは、間違っている言い切れる訳じゃないけど、十分に疑ってかかるべき問題である」というような話。
何故、そんな帰結にたどりつくのか。というと。
狂気は、脳あるいは神経といった身体の器官の故障と捉えるべきのか、心性の問題とするのか。西洋では過去数百年にわたって、そのどっちの問題なのか、という事が議論されてきました。
フロイト大先生やそれに連なるお歴々は「無意識」というものの発見により、心性の問題と決めてかかった訳です。ところが、結局「精神病」の治療に劇的な効果をあげたのは、リチウムなんですよ。かーとこばーん。
つかフロイト先生の業績なんて、いまや「無意識の発見」と「患者一人一人と向き合うという姿勢」くらいなもんじゃんかw フロイト先生自身、文化的な構造によって自説を曲げちゃった人だと言われてますよ。
さて脱線はほどほどにして。
薬品が効果をあげた、ということは、身体器官の故障じゃん、って考えるのが妥当ですね。科学物質で補正できたんだから。でも肝心の脳って器官があまり解明されていないのが現状。十分に怪しげな治療だと思えませんか。
ついでというかトドメに、薬剤の登場によって、狂気が「薬剤を適切に摂取し、生活を改善してゆけば、入院しなくても大丈夫」って認識になってしまった、という社会現象。常人の世界に狂人が紛れ込む訳で。狂気と正気の境がどんどん曖昧に。
それに伴って軽い神経症なんかは「ナイーブな思考をお持ちの方なら、誰でもなりうるんですよ」と考えられている。一種、神経症程度の狂気は、高尚な病になってしまった。そして軽度の神経症や精神病の患者が増殖。アホか。トラウマ乱用・精神鑑定万歳かよ。DSMの初版はたかが100ページ、今やDSM4はもはや943ページです。何この「狂気」の定義の広がり様。定義が広がれば、そりゃ患者も増えるわ。精神医学の経済、美味しそうだなぁ。
ここまで考えてしまうと、どーもこーも。狂気を病気とみなす事に反感を覚えてしまいます。僕はあの感覚を巧く言語で表現できないっつーのに。
心当たりがあるようなイヤな想い出や、論理的に説明がついちゃう考え方は、トラウマや妄想ではありません。だから僕の「手首が外れないのが不思議でならない」も、「生きる事の難しさ・苦しさの現れだ」と言われちゃえば、妄想じゃなくなるんです。いえーい(嘲笑)
狂人は相当多彩な症状を見せるでしょうけど、それにどんな名前を付けるか、って事で総てが決まっちゃう。恐ろしく主観的です。薬は、ある程度ではありますが、効き方に個人差も出るし、「患者」の日々の状態によっても変わるし。投薬と観察とを繰り返して治療していくって、危うげでは済まないほど手探りじゃないですか。
だから、精神医学の論理を、簡単に鵜呑みにするのは危ないよ。と。そんな話なんです。(何この落ちてないオチ)

巻末に、訳者による解説と、親切なことに読書案内がついてます。楽しそうな書名がならんでます。僕も読みたいと思うし、これを読むなら是非、他の図書も交えて読んで頂きたい。冗談じゃなく、「一冊で判る」ような問題じゃないんだから。
R.D.レインは嫌いじゃないんだけどね……でもやっぱり、もうあまり肯定できないなぁ。

すいません、引用しようとしたんですけど、この本のどこに載ってたのか、誰の言葉なのか、覚えてないです。でも印象的すぎて内容自体は覚えてるので。狂人としてベドラム(イギリスの悪評高い精神病院)に入れられた人の言葉だったと思う。
「あいつらは俺が狂っていると言った。俺はあいつらの方が狂っていると言った。ただ、あいつらの方が数が多かっただけだ」
確かに、そのぐらい狂気と正気の境は曖昧なんですよね。
だけど、そこで線引かなくていいの?って訊きたくなります。狂人の理論は常人の理論の足場を揺るがす虞があるでしょうに。つか、そんくらいの強度があってこそ狂気だよなぁ……。
あー、シュルレエルと同じ事かな。同じ地平に居て、ただその強度が違うだけで、人間はみんな狂ってるんだ、と。そういう事でオチでいいですか。

2008.04.11 
この手記という形態そのものが、ただ「自己との対話」のよに閉鎖的で自己充足するものであって、完結も無ければ連続的でもなく、具体的でも形而上的でもない。
これこそ、狂気の沙汰。

2008.04.08 
レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』読了。一日っつーか、数時間で読破です。枚数が少ないのもありましょうが、それよりものめり込んで一気に読んだという感覚です。
とんでもなく陳腐な事になりそうなので、粗筋は書きません。特に、僕が粗筋を書くと、所謂「行殺」に近いので。(「行殺」というのはメール・ゲームと呼ばれるRPGでキャラクターがたった一行で「……は死んだ」という風にあっさり殺されることが起源だと思われ。Wikipediaにある「行殺・新撰組」より以前からこの言葉を使ってたと思う、たぶん……。)
『肉体の悪魔』というタイトルの割には、露骨な性的描写はないです。むしろ心理描写の繊細かつ細密な作品です。
少年が、主人公の少年が、僕や或る人に、似すぎている。恐ろしい程です。僕は僕の内面を見ている心境に陥り。途中から主人公の少年やその恋人を、僕自身にすり替えて考えていました。夜のバスティーユからリヨンを彷徨うくだりや、終わりを望みながらも自ら終止符が打てずに周囲がそれを代行する事を望むあたりなど、特に……。相手や自分の心理を分析して行動したり、はったりは巧いくせに実は優柔不断な臆病者なあたりは僕にそっくりだし、少年らしい繊細で気まぐれで傲慢な心性は、或る人にそっくり。残念ながら(?)、僕ほどの気まぐれさを持つ人は登場しませんが。いやそれはファム・ファタルものに期待すべきか。
さて。恋をする者総てに共通するであろう事に共鳴したのなら、まだ理解できる(いや、僕としてはその方が理解できないんですけど、一般的に見て、ロマンスを読んで共感するとしたらソコだろう、と)。
そうじゃなくて、恋する者を客観的に……いや、他人事のように見てしまう書き手の態度、これに異常に共鳴するんです。相手の情熱も自らの心も、論理的に(恋に論理を持ち込むだなんて!)分析してしまう。回想の体裁を採るロマンスものでも、こうも冷たく解剖してしまうものは希有なのではないでしょうか。
もしかしたら、恋とやらを熱心に信奉なさる御方には、淡白すぎる、論理に偏りすぎるきらいがあるように映るかもしれません。ですが、恋も愛も論理的に説明がつかなきゃあ納得できない、という厄介な人間である僕には、とても良く描かれた作品です。

うーん。そもそもこれを読んだのは、コクトー絡みからだったんですけど、普通に純粋に楽しんでしまった。なんだかこれでまた、シュルレアリスムから遠のいていくような。早く帰って来い自分。

2008.04.03