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先日、莉子さんから御指摘のありました、僕の海外作家好きについて論じます。つか、ずーっといろんな人に言われ続けてます、この国内作家敬遠癖。
その原因は僕の触れてきたものの性質ゆえか、と軽く思い返してみます。
子守唄は旧約聖書の詩編でした。(いや、普通に童謡もあったけど、いまだに詩編の24の出だしとか暗唱できると思う)
小学生の頃は普通にルブランのルパンシリーズとか、ホームズとか、そういうのを読んでました。新約を多少読まされました。
中学生の頃に、水滸伝に出会いました。訳者が違えば雰囲気も登場人物の描かれ方も全然違う、というのが面白くてはまり込み、3・4種類は読んだと思います。
そして、十八史略や史記へ。これが面白いこと面白いこと。王朝の栄枯盛衰も激しいですが、人間性も激しい。刺客列伝の「風蕭々として易水寒し 壮士一度往きて復た帰らず」は、何度暗唱しても飽きない。史記はちなみに、普通に翻訳されたものを読んだ後、白文に挑戦しています。さらには、諸子百家は荘子と荀子を読みました。今となっては内容を忘れてしまいましたが、荘子の意味不明ぶりが強く印象に残っています。学校では漢文なんてほとんど教えていないに等しいのに、返り点のついてない白文はただでさえ難解だったでしょうに、荘子ですぜ。アホとしか思えません。
意味不明なのに、なんで読んでいたのか。それは、漢文の調子そのものが美しいと感じられたから。
簡潔にして要を得、かつ詩情が漂う。漢文の美文は、僕にとってはそういうものでした。
漢詩は『唐詩三百選』をぱらぱら読んでました。生真面目な杜甫を嫌って、飲んだくれの李白を愛しました。白楽天は、なぜか読んだ覚えが無い。あ、あれ……??
高校時代、寺山修司などの日本の60年代アングラに出会い、ぐにょんと道をそれてそっち方面に。それでも好んだのはやはり、翻訳物でした。
三島由紀夫も江戸川乱歩も少々読みましたが、確かに好きなのですが、異質と感じてしまう。漱石先生の冗長が苦手です。太宰のだらだらしていて湿っぽい書き口が嫌いです。芥川の切れ味のよい、けれどさめたような書き口が好きです。そこに漢文の素養とほんの少しの激情を加えたら、中島敦だと思う。中島敦の文章には湿っぽさが少なく、大陸的な乾いた雰囲気を持っているように感じます。幸田露伴も大好きです。愛してます。
唯一愛好した日本的な文章は、泉鏡花です。嗚呼、鏡花先生、あの人は生まれは江戸時代なのに、既に口語に近い文章でお書きなる(いや、まぁ1900年以降の文学は口語体が多いけどさ。)。現代口語に非常に近いのに、漢文のしっかりとした骨と、やまとことばの優しさと侘び寂び・移ろう季節を愛づる詩情。リズム感が、心地よい。本当に、講談を聞いて育ったんだなぁ。鴎外先生は、日本らしいゆかしき古文に親しんできたように感じます。美文だけど、あまり肌に馴染みません。
主観的かつ変な比喩ですが、漢文やドイツ語はしっかりとした頑健な枠をもっているけれど、日本語の文章は、どろりとした感じがしませんか。しないですか、そうですか。うーん。フラ語はなんとなーく日本語的な柔らかさがある感じなんですけどねー。英語はもっとだらだらですねー。文法も発音も。だからといって、英語ができる訳じゃないんですけど僕。
つまり。文章の質が、違う。より正確に言うと文法の質というか。出来の善し悪しではないんです、日本的な言葉の使い方が僕に馴染まない。僕は平気で助詞を省略するけれど、あまり主語を省略しません。
と。まぁ、親しんできた言語と、その雰囲気を愛したからだ、という事で話を進めてきたのですが、実は全然ちがうオチをつけようと書き始めたはずなんです。最初から脱線するとは僕ですら思いませんでしたよ。さすがは偉大なる無意識。我が愛しい夢に道を譲ったと思ったら、その夢はさっと駆け抜けてしまった感覚です。
現在の言語をみると、中国語もヨーロッパ系言語も、主語動詞目的語が割と判りやすくできています(句読点が入っていれば、の話だけど)。
けれどこれは、近代から現代へ、国民国家が成立するようになっていく時に整理し直された言語であるとも言えるから、それ以前の漢文に親しんでいたことが、主語動詞目的語がはっきりしている言語を好む理由にはなり得ません。実際、省略されますから。
うまく言えないけど、逆ですねー。主語動詞目的語がはっきりしているから漢文が好きだった、とかじゃなくて、聖書や漢文をはじめとした、日本以外の言語と文化のものを日本語で記述したもの、「翻訳されたもの」にずっと親しんできたために、それに特化していった。ナチュラルな口語のスタイルが苦手になった。
そういう事かもしれません。
翻訳されたものは、どんなに訳が巧くとも、最初から日本語で為された口語や書き言葉とは質が違いますからね。どう違うのか、明確には言えませんが。
そういえば、鏡花先生のリズミカルな講談調も、現代のナチュラルな口語には見られない特徴ですねー。漢文漢詩のリズムも素晴らしいものです。
もしかしたら、音読した時の言葉のリズムも関わるかもしれません。僕は漢文と漢詩はさんざん音読しましたから。
その辺りは、またいずれ。
その原因は僕の触れてきたものの性質ゆえか、と軽く思い返してみます。
子守唄は旧約聖書の詩編でした。(いや、普通に童謡もあったけど、いまだに詩編の24の出だしとか暗唱できると思う)
小学生の頃は普通にルブランのルパンシリーズとか、ホームズとか、そういうのを読んでました。新約を多少読まされました。
中学生の頃に、水滸伝に出会いました。訳者が違えば雰囲気も登場人物の描かれ方も全然違う、というのが面白くてはまり込み、3・4種類は読んだと思います。
そして、十八史略や史記へ。これが面白いこと面白いこと。王朝の栄枯盛衰も激しいですが、人間性も激しい。刺客列伝の「風蕭々として易水寒し 壮士一度往きて復た帰らず」は、何度暗唱しても飽きない。史記はちなみに、普通に翻訳されたものを読んだ後、白文に挑戦しています。さらには、諸子百家は荘子と荀子を読みました。今となっては内容を忘れてしまいましたが、荘子の意味不明ぶりが強く印象に残っています。学校では漢文なんてほとんど教えていないに等しいのに、返り点のついてない白文はただでさえ難解だったでしょうに、荘子ですぜ。アホとしか思えません。
意味不明なのに、なんで読んでいたのか。それは、漢文の調子そのものが美しいと感じられたから。
簡潔にして要を得、かつ詩情が漂う。漢文の美文は、僕にとってはそういうものでした。
漢詩は『唐詩三百選』をぱらぱら読んでました。生真面目な杜甫を嫌って、飲んだくれの李白を愛しました。白楽天は、なぜか読んだ覚えが無い。あ、あれ……??
高校時代、寺山修司などの日本の60年代アングラに出会い、ぐにょんと道をそれてそっち方面に。それでも好んだのはやはり、翻訳物でした。
三島由紀夫も江戸川乱歩も少々読みましたが、確かに好きなのですが、異質と感じてしまう。漱石先生の冗長が苦手です。太宰のだらだらしていて湿っぽい書き口が嫌いです。芥川の切れ味のよい、けれどさめたような書き口が好きです。そこに漢文の素養とほんの少しの激情を加えたら、中島敦だと思う。中島敦の文章には湿っぽさが少なく、大陸的な乾いた雰囲気を持っているように感じます。幸田露伴も大好きです。愛してます。
唯一愛好した日本的な文章は、泉鏡花です。嗚呼、鏡花先生、あの人は生まれは江戸時代なのに、既に口語に近い文章でお書きなる(いや、まぁ1900年以降の文学は口語体が多いけどさ。)。現代口語に非常に近いのに、漢文のしっかりとした骨と、やまとことばの優しさと侘び寂び・移ろう季節を愛づる詩情。リズム感が、心地よい。本当に、講談を聞いて育ったんだなぁ。鴎外先生は、日本らしいゆかしき古文に親しんできたように感じます。美文だけど、あまり肌に馴染みません。
主観的かつ変な比喩ですが、漢文やドイツ語はしっかりとした頑健な枠をもっているけれど、日本語の文章は、どろりとした感じがしませんか。しないですか、そうですか。うーん。フラ語はなんとなーく日本語的な柔らかさがある感じなんですけどねー。英語はもっとだらだらですねー。文法も発音も。だからといって、英語ができる訳じゃないんですけど僕。
つまり。文章の質が、違う。より正確に言うと文法の質というか。出来の善し悪しではないんです、日本的な言葉の使い方が僕に馴染まない。僕は平気で助詞を省略するけれど、あまり主語を省略しません。
と。まぁ、親しんできた言語と、その雰囲気を愛したからだ、という事で話を進めてきたのですが、実は全然ちがうオチをつけようと書き始めたはずなんです。最初から脱線するとは僕ですら思いませんでしたよ。さすがは偉大なる無意識。我が愛しい夢に道を譲ったと思ったら、その夢はさっと駆け抜けてしまった感覚です。
現在の言語をみると、中国語もヨーロッパ系言語も、主語動詞目的語が割と判りやすくできています(句読点が入っていれば、の話だけど)。
けれどこれは、近代から現代へ、国民国家が成立するようになっていく時に整理し直された言語であるとも言えるから、それ以前の漢文に親しんでいたことが、主語動詞目的語がはっきりしている言語を好む理由にはなり得ません。実際、省略されますから。
うまく言えないけど、逆ですねー。主語動詞目的語がはっきりしているから漢文が好きだった、とかじゃなくて、聖書や漢文をはじめとした、日本以外の言語と文化のものを日本語で記述したもの、「翻訳されたもの」にずっと親しんできたために、それに特化していった。ナチュラルな口語のスタイルが苦手になった。
そういう事かもしれません。
翻訳されたものは、どんなに訳が巧くとも、最初から日本語で為された口語や書き言葉とは質が違いますからね。どう違うのか、明確には言えませんが。
そういえば、鏡花先生のリズミカルな講談調も、現代のナチュラルな口語には見られない特徴ですねー。漢文漢詩のリズムも素晴らしいものです。
もしかしたら、音読した時の言葉のリズムも関わるかもしれません。僕は漢文と漢詩はさんざん音読しましたから。
その辺りは、またいずれ。
2008.03.30 ▲
レヴュー予定の銘柄一覧。
記事を書いた銘柄にはアスタリスクをつけ、リンクを貼っておきます。
長ーいので追記を開いてご覧ください。
記事を書いた銘柄にはアスタリスクをつけ、リンクを貼っておきます。
長ーいので追記を開いてご覧ください。
2008.03.29 ▲
えー。来月26日に煙草辞めます宣言をしてます。それまでは悔いのないように好きなだけ吸うけどね。
そういう訳で、僕が愛した煙草や吸った事のある煙草、友人が好んだ煙草などをだらだらと主観全開で紹介していこうと思います。
ドイツ語で紙巻き煙草はDie Zigaretteですが、僕は紙巻き煙草のみならず、リトルシガーやシガリロにも手をだし、一度はシガーも吸った事があるので、ここはRaufen、(煙草などを)「吸う」という動名詞の方が宜しいかと。
……つくづく、わずか22の♀らしくないなぁ、と思います。
喫煙者が排斥されるのは悲しい事だと思います。喫煙者が幅を利かすのもイヤだけどね。他人の煙草は嫌いだから。だからといって、禁煙ファシズムはもっと嫌いだけど。
ただ、一つだけ言いたい。
「愛煙家と煙草中毒は違う。」
一般的には愛煙家は煙草中毒の美名、という認識だろう。
確かに僕は煙草中毒だった。認める。吸う本数は非常に少ない方だが、気分を変える時には吸わないと居られない。好みの銘柄が手に入らない時は、嫌いな銘柄でも吸った。これが煙草中毒。
愛煙家というものは煙草中毒とは別だと思う。彼らは、マナーを意識するまでもなく守り、吸うべきでない時には絶対に吸おうともしないし、愛する銘柄が手に入らない時には、手に入るまで平気で数日煙草を吸わない。そして、学生のくせに平気で一箱1000円越えの煙草を買ってたりする。それが、愛煙家。
煙草中毒は、煙草に害がある事も煙草が実は不味いシロモノである事も承知していても、吸わずに居られない、ただのジャンキーであって、適切な努力をすれば煙草をやめる。
愛煙家は、煙草に害がある事は承知しているが、それが不味いシロモノであるなんて夢にも思っていない。香しいとのたまう。やめたくてもやめられないジャンキーじゃなくて、心底愛しちゃっている。
ある意味、愛煙家の方が煙草中毒より厄介だと、僕はたまに思う。
そういう訳で、僕が愛した煙草や吸った事のある煙草、友人が好んだ煙草などをだらだらと主観全開で紹介していこうと思います。
ドイツ語で紙巻き煙草はDie Zigaretteですが、僕は紙巻き煙草のみならず、リトルシガーやシガリロにも手をだし、一度はシガーも吸った事があるので、ここはRaufen、(煙草などを)「吸う」という動名詞の方が宜しいかと。
……つくづく、わずか22の♀らしくないなぁ、と思います。
喫煙者が排斥されるのは悲しい事だと思います。喫煙者が幅を利かすのもイヤだけどね。他人の煙草は嫌いだから。だからといって、禁煙ファシズムはもっと嫌いだけど。
ただ、一つだけ言いたい。
「愛煙家と煙草中毒は違う。」
一般的には愛煙家は煙草中毒の美名、という認識だろう。
確かに僕は煙草中毒だった。認める。吸う本数は非常に少ない方だが、気分を変える時には吸わないと居られない。好みの銘柄が手に入らない時は、嫌いな銘柄でも吸った。これが煙草中毒。
愛煙家というものは煙草中毒とは別だと思う。彼らは、マナーを意識するまでもなく守り、吸うべきでない時には絶対に吸おうともしないし、愛する銘柄が手に入らない時には、手に入るまで平気で数日煙草を吸わない。そして、学生のくせに平気で一箱1000円越えの煙草を買ってたりする。それが、愛煙家。
煙草中毒は、煙草に害がある事も煙草が実は不味いシロモノである事も承知していても、吸わずに居られない、ただのジャンキーであって、適切な努力をすれば煙草をやめる。
愛煙家は、煙草に害がある事は承知しているが、それが不味いシロモノであるなんて夢にも思っていない。香しいとのたまう。やめたくてもやめられないジャンキーじゃなくて、心底愛しちゃっている。
ある意味、愛煙家の方が煙草中毒より厄介だと、僕はたまに思う。
2008.03.29 ▲
阿呆らしい精神病の話に興味のある方は、追記を開いてみてくださいまし。
2008.03.22 ▲
それはそれは個人的な泣き言です。
どうやら僕はまだ、頭の病気が治らないようです。
つーか、治るわけ無いじゃん。病気じゃなくて狂気なんだもん。
どうやら僕はまだ、頭の病気が治らないようです。
つーか、治るわけ無いじゃん。病気じゃなくて狂気なんだもん。
2008.03.11 ▲
今更セカチュー読んでます。
あ、セカチューはセカチューでも、ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』ですよ。
あ、別に結構前に流行ったセカチューのパクリじゃないですよ。
順序として逆です。エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』の方が先で、ちょっと前の『世界の中心で愛を叫ぶ』の方が後です。何せ、エリスンはアシモフと同時代の方でございます故。
『世界の中心で愛を叫ぶ』が『世界の中心で愛を叫んだ獣』の表題を、どのような経路、どのような意図でパクったのか、そもそもパクリではなくただの偶然なのかは知りませんが、エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』は、(純正かどうかには疑問の余地がありますが)SFです。ただただ奇麗で「泣ける」耽美的なシロモノ、という事は決してありません。(『世界の中心で愛を叫ぶ』を読んだ事は無いのにひどい書き方してます、ごめんなさい。でも絶ッッッ対に『世界の中心で愛を叫ぶ』は読む気がしないのです。先入観があるからには、それを払拭できるまでは読むべきではないのです。)
エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』は、サイコだし、ヴァイオレンスだし、それでありながら、ロジカルで詩的。翻訳者の腕が良いのかとも思いましたが、この『世界の中心で愛を叫んだ獣』は短編集のような形をとっており、各々訳者が違い、風味が違うんですが、その詩的な優雅さと、それに相反しそうなくせにぴったりと寄り添うように付随するロジカルさは一貫しています。ロジックの美しさではアシモフに劣りますが、詩的な表現では優っているように思います。問題意識の深さは、甲乙つけ難し。
文章にふれて、美しいな、と単純に・純粋に思えた、久しぶりの体験です。
実は現在進行形。まだ読んでいる途中です。読み終えてもきっと、何度も再読しそうな本です。きっと一度じゃ理解し得ない、いや、理解はしなくても良いのかもしれないけれど、本来得られるはずの何かが一読しただけじゃ得られない予感がします。
楽しみだ。
あ、セカチューはセカチューでも、ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』ですよ。
あ、別に結構前に流行ったセカチューのパクリじゃないですよ。
順序として逆です。エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』の方が先で、ちょっと前の『世界の中心で愛を叫ぶ』の方が後です。何せ、エリスンはアシモフと同時代の方でございます故。
『世界の中心で愛を叫ぶ』が『世界の中心で愛を叫んだ獣』の表題を、どのような経路、どのような意図でパクったのか、そもそもパクリではなくただの偶然なのかは知りませんが、エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』は、(純正かどうかには疑問の余地がありますが)SFです。ただただ奇麗で「泣ける」耽美的なシロモノ、という事は決してありません。(『世界の中心で愛を叫ぶ』を読んだ事は無いのにひどい書き方してます、ごめんなさい。でも絶ッッッ対に『世界の中心で愛を叫ぶ』は読む気がしないのです。先入観があるからには、それを払拭できるまでは読むべきではないのです。)
エリスンの『世界の中心で愛を叫んだ獣』は、サイコだし、ヴァイオレンスだし、それでありながら、ロジカルで詩的。翻訳者の腕が良いのかとも思いましたが、この『世界の中心で愛を叫んだ獣』は短編集のような形をとっており、各々訳者が違い、風味が違うんですが、その詩的な優雅さと、それに相反しそうなくせにぴったりと寄り添うように付随するロジカルさは一貫しています。ロジックの美しさではアシモフに劣りますが、詩的な表現では優っているように思います。問題意識の深さは、甲乙つけ難し。
文章にふれて、美しいな、と単純に・純粋に思えた、久しぶりの体験です。
実は現在進行形。まだ読んでいる途中です。読み終えてもきっと、何度も再読しそうな本です。きっと一度じゃ理解し得ない、いや、理解はしなくても良いのかもしれないけれど、本来得られるはずの何かが一読しただけじゃ得られない予感がします。
楽しみだ。
2008.03.09 ▲
僕は自称・ビブリオマニア。
しかし、活字中毒ではない。断じて違う。活字なんか見なくたって生きていける。いや、見てた方が楽しいし、特に昭和頃の行間のキツくて文字の密度が高くてインキが微妙ににじんでちょっと読み難いくらいの活字なんか、もう大好きだ。愛してる。今、岩波すら小奇麗な活字で刷るね。幻滅です。
はい。この時点でもう判るでしょう。
僕は、装丁と表紙と紙とそこに印刷されているインクなどが織りなす一種の芸術品が大好きなのであって、内容に固執する事はまったくない、ということ。
所謂、文盲の愛書家。
しかし。僕が「愛蔵したい」「貯金抛っても所有したい」と欲望するほど美しい本って……無いんだよね。滅多に。白黒の写真で眺めた事があるっきりです。
文庫・新書は論外です。ペーパーバックは消費されてしかるべき。焚書されたって文句は言えないでしょ、あれだけ燃えやすそうな紙質と装丁と「量産品です!」って主張してたら。この紙は燃やしてもダイオキシンが発生しません、とか。
ハードカバー。現在普通に本屋に置いてあるハードカバーは、紙質はなかなか良いですね、でも活字が小奇麗すぎるし、なんだかんだ言って量産品らしい型にハマった装丁してます。紙のカバーをはいだら終わりじゃないか。
昔、といってもまだ半世紀程しか経っちゃいない程度の昔は、レースをあしらうような遊び心のあふれる本や、重厚な革の装丁を用いた重みと神秘とノスタルジーを感じさせる本がたーくさんあったはずなのになぁ。ヨーロッパにはね。日本じゃ湿度の関係で革は厳しいだろうな。……行きたいなぁ、ヨーロッパ。
日本だって、綾なす美しい和紙で表紙を作り、透かしの入った紙を糸で綴った本がいっぱいあった訳でしょう。そこには神経質な、でも愛おしい活字が並んでて……。嗚呼、僕は、それも好き。欲しい。
なーんで、こんなにも本の形態に無関心な有様になってしまったんだろう。
別にペーパーバックを非難するつもりはありませんよ。アレの存在のお陰で僕はたくさん本を読めるんだから。でも、高級な美しい本、美術品として愛でる本、というものもあっていいと思うんだけど。
そういう訳で、僕が執心するのは美術展のカタログかな。もちろん、安っぽい造りのものもあるけれど。例えばエッシャー展とかのカタログは定形外の規格だし、球体関節人形展のカタログはカバーに工夫を凝らしていたり、人形展の雰囲気をそのまま持ち込めるような紙と印字をしていたり、と、一般の読み物よりはずっと愛でるに値する。
本を売る時に、そのカバーデザインに気を配るようですが、それ以前に紙質・装丁そのもの・持ったときの質感や重み、等も考慮して欲しいな、そうしたら少しは本を買う気がするんだけどな、と僕は思う。僕は視覚的な美しさにも固執するけれど、手触りや重量といった触覚的な美しさにも惹かれるから。芸術家も、表紙の絵を描くだけじゃなくて、本の姿そのものをデザインすれば良いのに。
まぁ、そんな事しても喜ぶのは僕のような文盲型ビブリオマニアだけだろうなー、とは思いますけれど。
ああ、ちなみに文盲型ビブリオマニアなんで、初版がどうこうについては無関心です。読めないもーん。
しかし、活字中毒ではない。断じて違う。活字なんか見なくたって生きていける。いや、見てた方が楽しいし、特に昭和頃の行間のキツくて文字の密度が高くてインキが微妙ににじんでちょっと読み難いくらいの活字なんか、もう大好きだ。愛してる。今、岩波すら小奇麗な活字で刷るね。幻滅です。
はい。この時点でもう判るでしょう。
僕は、装丁と表紙と紙とそこに印刷されているインクなどが織りなす一種の芸術品が大好きなのであって、内容に固執する事はまったくない、ということ。
所謂、文盲の愛書家。
しかし。僕が「愛蔵したい」「貯金抛っても所有したい」と欲望するほど美しい本って……無いんだよね。滅多に。白黒の写真で眺めた事があるっきりです。
文庫・新書は論外です。ペーパーバックは消費されてしかるべき。焚書されたって文句は言えないでしょ、あれだけ燃えやすそうな紙質と装丁と「量産品です!」って主張してたら。この紙は燃やしてもダイオキシンが発生しません、とか。
ハードカバー。現在普通に本屋に置いてあるハードカバーは、紙質はなかなか良いですね、でも活字が小奇麗すぎるし、なんだかんだ言って量産品らしい型にハマった装丁してます。紙のカバーをはいだら終わりじゃないか。
昔、といってもまだ半世紀程しか経っちゃいない程度の昔は、レースをあしらうような遊び心のあふれる本や、重厚な革の装丁を用いた重みと神秘とノスタルジーを感じさせる本がたーくさんあったはずなのになぁ。ヨーロッパにはね。日本じゃ湿度の関係で革は厳しいだろうな。……行きたいなぁ、ヨーロッパ。
日本だって、綾なす美しい和紙で表紙を作り、透かしの入った紙を糸で綴った本がいっぱいあった訳でしょう。そこには神経質な、でも愛おしい活字が並んでて……。嗚呼、僕は、それも好き。欲しい。
なーんで、こんなにも本の形態に無関心な有様になってしまったんだろう。
別にペーパーバックを非難するつもりはありませんよ。アレの存在のお陰で僕はたくさん本を読めるんだから。でも、高級な美しい本、美術品として愛でる本、というものもあっていいと思うんだけど。
そういう訳で、僕が執心するのは美術展のカタログかな。もちろん、安っぽい造りのものもあるけれど。例えばエッシャー展とかのカタログは定形外の規格だし、球体関節人形展のカタログはカバーに工夫を凝らしていたり、人形展の雰囲気をそのまま持ち込めるような紙と印字をしていたり、と、一般の読み物よりはずっと愛でるに値する。
本を売る時に、そのカバーデザインに気を配るようですが、それ以前に紙質・装丁そのもの・持ったときの質感や重み、等も考慮して欲しいな、そうしたら少しは本を買う気がするんだけどな、と僕は思う。僕は視覚的な美しさにも固執するけれど、手触りや重量といった触覚的な美しさにも惹かれるから。芸術家も、表紙の絵を描くだけじゃなくて、本の姿そのものをデザインすれば良いのに。
まぁ、そんな事しても喜ぶのは僕のような文盲型ビブリオマニアだけだろうなー、とは思いますけれど。
ああ、ちなみに文盲型ビブリオマニアなんで、初版がどうこうについては無関心です。読めないもーん。
2008.03.07 ▲
いや、今回はビブリオマニアといっても、活字じゃなくて文房具の話なんですけど。文房具へ異常な執着を見せる人々を指す言葉がないため、「ビブリオマニア」で代用してみました。
僕は文房具が好きで好きで。先日、就職活動の帰り道に丸善に寄ったときも、本には見向きもせずにふらふらと万年筆のコーナーに吸い込まれました。
仕立ての良いスーツを着た趣味の良いおじさん達に混じって、ぺらぺらで安物の大量生産と一目で分かるリクルートスーツを着たガキが物欲しそうにショウウィンドウを凝視する。貧乏学生そのもの、という図ですな。
一目惚れした万年筆には、113,400という目もくらむ数字が書き込まれたタグが付いておりました……泣けます。ほんとうに、ほんとうに美しいラインなんです、あの万年筆!欲しい!!泣く泣く、それより少しランクを下げよう、と見てみたものも9のあとにゼロが4つ付いてました。……貧乏学生には、キツい。特に壊れかけのMacをいい加減新調しようと計画しているからには……。
あきらめてブックマーカーのあたりをふらついて、やはり一目惚れしたものは14000。栞に1万は払いたくないぞ……よく失くすから。
最後、便せん・封筒のコーナーへ。海外へ留学した友人に手紙を書こうと思ってエアメール用の便せん・封筒を探していたら(エアメール用の便せんは薄くて丈夫だから、重量をあまり気にせずいっぱい書けます。国内での手紙のやり取りにも良いかも)、以前から欲しい欲しいと思っていたブックダーツを偶然発見しました!!こんなのです。
銅というか真鍮色っぽくて、アンティークな感じ。形も本来は鏃と呼ぶべきなんだろうけれど、まるでペン先を模しているようで、シンプルに奇麗。薄くて軽くて、付箋のようにたくさん本に挟んでもまったく邪魔になりません。突起も無いから、紙を痛ましめる事もないでしょう。また、けっこう頑丈みたいで繰り返し使える模様。僕は今回12コ入りを買いましたが、実際使ってみたらいよいよ愛着が増して、50コ入りも欲しくなりました。(多分、ブックダーツが50コ欲しいんじゃなくて、あの缶が欲しいんだと思う)
コスト面でも、大事に使いさえすれば、普通の付箋を買うのと大して変わらないと思う。
ただ、汚れた手で触ると指紋が付着するのが難点ですが。まぁ、普通に読書してると、紙に指の脂が吸われるだろうから、その後ブックダーツを触っても指紋はつかないか。うーん。
しかし、つくづく文房具って、美しいなぁ……。書籍もね、好きなんですよ。ほんとは。ただ、愛するに値する書籍はなかなか見つからないなぁ。ペーパーバックの文庫なんかは、消費されて当然の形態だと思いますよ。僕にとっては、愛蔵するに値しない。
僕は文房具が好きで好きで。先日、就職活動の帰り道に丸善に寄ったときも、本には見向きもせずにふらふらと万年筆のコーナーに吸い込まれました。
仕立ての良いスーツを着た趣味の良いおじさん達に混じって、ぺらぺらで安物の大量生産と一目で分かるリクルートスーツを着たガキが物欲しそうにショウウィンドウを凝視する。貧乏学生そのもの、という図ですな。
一目惚れした万年筆には、113,400という目もくらむ数字が書き込まれたタグが付いておりました……泣けます。ほんとうに、ほんとうに美しいラインなんです、あの万年筆!欲しい!!泣く泣く、それより少しランクを下げよう、と見てみたものも9のあとにゼロが4つ付いてました。……貧乏学生には、キツい。特に壊れかけのMacをいい加減新調しようと計画しているからには……。
あきらめてブックマーカーのあたりをふらついて、やはり一目惚れしたものは14000。栞に1万は払いたくないぞ……よく失くすから。
最後、便せん・封筒のコーナーへ。海外へ留学した友人に手紙を書こうと思ってエアメール用の便せん・封筒を探していたら(エアメール用の便せんは薄くて丈夫だから、重量をあまり気にせずいっぱい書けます。国内での手紙のやり取りにも良いかも)、以前から欲しい欲しいと思っていたブックダーツを偶然発見しました!!こんなのです。
銅というか真鍮色っぽくて、アンティークな感じ。形も本来は鏃と呼ぶべきなんだろうけれど、まるでペン先を模しているようで、シンプルに奇麗。薄くて軽くて、付箋のようにたくさん本に挟んでもまったく邪魔になりません。突起も無いから、紙を痛ましめる事もないでしょう。また、けっこう頑丈みたいで繰り返し使える模様。僕は今回12コ入りを買いましたが、実際使ってみたらいよいよ愛着が増して、50コ入りも欲しくなりました。(多分、ブックダーツが50コ欲しいんじゃなくて、あの缶が欲しいんだと思う)
コスト面でも、大事に使いさえすれば、普通の付箋を買うのと大して変わらないと思う。
ただ、汚れた手で触ると指紋が付着するのが難点ですが。まぁ、普通に読書してると、紙に指の脂が吸われるだろうから、その後ブックダーツを触っても指紋はつかないか。うーん。
しかし、つくづく文房具って、美しいなぁ……。書籍もね、好きなんですよ。ほんとは。ただ、愛するに値する書籍はなかなか見つからないなぁ。ペーパーバックの文庫なんかは、消費されて当然の形態だと思いますよ。僕にとっては、愛蔵するに値しない。
2008.03.04 ▲
E.H.カー御大の『歴史とは何か』(E.H.カー著 清水幾太郎訳 1962 岩波書店)、再読。
これは入学時に真っ先に読むように言われた本ですが、明らかに高校卒業したばかりのガキんちょが理解できる内容じゃありません。
そういう訳で、今更読み直したのですが、うん、やっと判る。でもきっと表面的な理解なんだろうな……。
19世紀の人文科学や理性への無邪気な妄信を批判し、科学の絶対性も否定し、人間が認識する限り、総ては完全な客観にはなり得ないと断じ、そのままじゃシニシズムに陥りかねないだろうに、それでもより良い解釈を選び取ることはできると仰る。謙虚で前向きです。不思議。文章の節々に「英国人らしい」と思わせる穏やかさと皮肉が見えます。
落ち目のヨーロッパ、衰退して王者の座を他の地域に譲ったイギリス、世界は行き詰まっているように見える。しかしこれを悲観しない。ヨーロッパはかつての権勢を失っただろうけれど、アジアやアフリカの、ヨーロッパが搾取の対象としてしか見ていなかった地域が、曙光の勢いで発展している。世界が行き詰まっているんじゃない、ただヨーロッパが他の地域に取って代わられただけであり、これは人類全体という視野で観るなら衰退ではない、としている訳です。
バランス、というか差異は常にあったもので(無ければ経済的にも文化的にも発展というものがなくなるんじゃないかなぁ)、その高みが地理的に移行しただけだ、ということ。中心と周辺が入れ替わる、かも知れない。
う。これは歴史の話じゃなくて世界情勢の話ですな。いや、現代史というものも存在しますけど。うーん、突き詰めると、僕らが現代と呼んでいる時点も「最も近い過去」であり、今この瞬間も過去になっていくからには、総ては過去の話になる訳で、そうすると歴史は過去のことしか分析できない学問と言えますが、真実の今・ここという時点・地点は忽然として現れた訳ではなく、過去からの流れによって生じたもので、その点に於いて歴史は現在と密接な関わりを持ち……我ながら面倒い事考えるなぁ。僕は思想家じゃない。
うーんと、歴史は、現代と過去との相互作用によって成り立つわけで、事実の集積は、それのみでは歴史にはなりえない。そこに意味が付与されて、初めて歴史になる。面白いのが、意味は「事実から読み取るもの」ではなく、「事実に与えるもの」である、という考え方。意味に先立って事実があるんじゃなくて、事実に先立って意味がある、と言い換えると、言語論的転回っぽくないですか。気のせいだろうけど。
事実を解釈し、その解釈にそってまた事実を集め、その事実を解釈し……という無限ループ。それが歴史家の仕事。一見徒労、僕にはとっても魅力的。
そうして書かれたその歴史書、それそのものも時代を映すもの。人が社会を構成するけれど、その構成された社会に人は影響される。その影響下で何かを解釈すれば、当然その解釈もその影響を受ける。あるいは影響が濃縮されて行くかもしれない。
どこぞで「現代の思想で過去を断罪するのはおかしい」という話を聞いた事があるけど、「ではアウシュヴィッツも当時の流れに則って肯定して良いのですかい」という揚げ足取りもしたくなるし、現代の思想にまったく影響されない人間なんていやしないでしょうに。
まぁ、被疑者は全員泉下に居る、なんて法廷は、確かに公平じゃないけどね。
他にはー、個人の心性のみに注目するものは偉人伝であって歴史じゃない、歴史は集団を対象とするものだ、とか。物語を貶める訳じゃないけど、歴史は物語ではない、と断じてます。物語のように「特殊」なものではなく、「普遍」を求めるものだ、と。
ああ、面白い話では、クレオパトラの鼻について、とか。ああいう小さな出来事が歴史に大きな作用を及ぼした、と考えられているものは、見間違いである、と。
「煙草を買いに外へ出て、見通しの悪い道で、酔っ払った運転手の車にはねられたとしたら、悪いのは酔っぱらった運転手や、見通しの悪い道であって、煙草を欲したことや煙草自体ではない」という例を用いて説明してます。(嗚呼、まだ煙草が敵視されていない時代の文章だなぁ、と思ってしまった僕はまだ喫煙者)
確かに、将軍一人が(あれ、もうこの時は皇帝だっけ?)、ある女に入れ込んだからって骨抜きになるような軍隊や国家は、その編成や体制に問題があるんでしょう。たぶん。
うう。ぜんっぜん頭の中でまとまってません。でも、非常に面白かったー。
もとが講義録だから、読みやすい事は読みやすい、でも本当に理解するのは大変な一冊。アクトンなんて知らないし、僕は今回も表面的な理解しか出来なかったと思う。(歴史学科の学部生として、それは如何かと思うけど)
いつかまた再読します。できれば原書を頑張って読んでみたいなぁ……。
これは入学時に真っ先に読むように言われた本ですが、明らかに高校卒業したばかりのガキんちょが理解できる内容じゃありません。
そういう訳で、今更読み直したのですが、うん、やっと判る。でもきっと表面的な理解なんだろうな……。
19世紀の人文科学や理性への無邪気な妄信を批判し、科学の絶対性も否定し、人間が認識する限り、総ては完全な客観にはなり得ないと断じ、そのままじゃシニシズムに陥りかねないだろうに、それでもより良い解釈を選び取ることはできると仰る。謙虚で前向きです。不思議。文章の節々に「英国人らしい」と思わせる穏やかさと皮肉が見えます。
落ち目のヨーロッパ、衰退して王者の座を他の地域に譲ったイギリス、世界は行き詰まっているように見える。しかしこれを悲観しない。ヨーロッパはかつての権勢を失っただろうけれど、アジアやアフリカの、ヨーロッパが搾取の対象としてしか見ていなかった地域が、曙光の勢いで発展している。世界が行き詰まっているんじゃない、ただヨーロッパが他の地域に取って代わられただけであり、これは人類全体という視野で観るなら衰退ではない、としている訳です。
バランス、というか差異は常にあったもので(無ければ経済的にも文化的にも発展というものがなくなるんじゃないかなぁ)、その高みが地理的に移行しただけだ、ということ。中心と周辺が入れ替わる、かも知れない。
う。これは歴史の話じゃなくて世界情勢の話ですな。いや、現代史というものも存在しますけど。うーん、突き詰めると、僕らが現代と呼んでいる時点も「最も近い過去」であり、今この瞬間も過去になっていくからには、総ては過去の話になる訳で、そうすると歴史は過去のことしか分析できない学問と言えますが、真実の今・ここという時点・地点は忽然として現れた訳ではなく、過去からの流れによって生じたもので、その点に於いて歴史は現在と密接な関わりを持ち……我ながら面倒い事考えるなぁ。僕は思想家じゃない。
うーんと、歴史は、現代と過去との相互作用によって成り立つわけで、事実の集積は、それのみでは歴史にはなりえない。そこに意味が付与されて、初めて歴史になる。面白いのが、意味は「事実から読み取るもの」ではなく、「事実に与えるもの」である、という考え方。意味に先立って事実があるんじゃなくて、事実に先立って意味がある、と言い換えると、言語論的転回っぽくないですか。気のせいだろうけど。
事実を解釈し、その解釈にそってまた事実を集め、その事実を解釈し……という無限ループ。それが歴史家の仕事。一見徒労、僕にはとっても魅力的。
そうして書かれたその歴史書、それそのものも時代を映すもの。人が社会を構成するけれど、その構成された社会に人は影響される。その影響下で何かを解釈すれば、当然その解釈もその影響を受ける。あるいは影響が濃縮されて行くかもしれない。
どこぞで「現代の思想で過去を断罪するのはおかしい」という話を聞いた事があるけど、「ではアウシュヴィッツも当時の流れに則って肯定して良いのですかい」という揚げ足取りもしたくなるし、現代の思想にまったく影響されない人間なんていやしないでしょうに。
まぁ、被疑者は全員泉下に居る、なんて法廷は、確かに公平じゃないけどね。
他にはー、個人の心性のみに注目するものは偉人伝であって歴史じゃない、歴史は集団を対象とするものだ、とか。物語を貶める訳じゃないけど、歴史は物語ではない、と断じてます。物語のように「特殊」なものではなく、「普遍」を求めるものだ、と。
ああ、面白い話では、クレオパトラの鼻について、とか。ああいう小さな出来事が歴史に大きな作用を及ぼした、と考えられているものは、見間違いである、と。
「煙草を買いに外へ出て、見通しの悪い道で、酔っ払った運転手の車にはねられたとしたら、悪いのは酔っぱらった運転手や、見通しの悪い道であって、煙草を欲したことや煙草自体ではない」という例を用いて説明してます。(嗚呼、まだ煙草が敵視されていない時代の文章だなぁ、と思ってしまった僕はまだ喫煙者)
確かに、将軍一人が(あれ、もうこの時は皇帝だっけ?)、ある女に入れ込んだからって骨抜きになるような軍隊や国家は、その編成や体制に問題があるんでしょう。たぶん。
うう。ぜんっぜん頭の中でまとまってません。でも、非常に面白かったー。
もとが講義録だから、読みやすい事は読みやすい、でも本当に理解するのは大変な一冊。アクトンなんて知らないし、僕は今回も表面的な理解しか出来なかったと思う。(歴史学科の学部生として、それは如何かと思うけど)
いつかまた再読します。できれば原書を頑張って読んでみたいなぁ……。
2008.03.03 ▲
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人間と感情的な部分で深く関わりたくなくて、ある人に悲しい思いをさせてまして。
僕としては、こういう風に生きてる時の方がすごく楽です。意俊也。65DaysOfStatic先程のコメントは私信についてのものです。桜居65DaysOfStaticもし見当違いなことを言っていたらごめん。
君は書くべきだ。書かずにはいられないのなら書くべきだ。その衝動に正直になるべきだ。誰のためでもなく自分のために。そのと桜居