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僕は、歴史学なんていう文部科学省が「無駄」の烙印を押して排斥する学問なんかを専攻してる。もはや、国立大で歴史学科が存在するのはたった三校ですよ。
それでも、これを選んで、本当に良かったと思っている。
僕の卒論のテーマは、悲しい哉もう1年半近く前に決定してしまったのだけれど、ドイツのシュルレアリスト、ハンス・ベルメールだ。シュルレアリスム、といえば美術の様式の一つだから、僕は西洋美術のある様式に附いて研究をすればいいわけだ。ふつーに考えるならば!
ところがところが、そうは行かないのが、この美術史という言葉にくっついてる「史」。
3年近く前に、ある先輩が「史学科は楽しい、何でも『史』という言葉をつければ研究対象になるんだから」なーんて言ってたけど、確かにごもっとも……僕は半泣きですよ!!
歴史という学問は。E.H.カーがいみじくも仰った通り、「社会の中にいる人間の過去を研究する手続き」だと僕も信じてる。この、「社会」が厄介なのさ。
ハンス・ベルメールは、シュルレアリストであり、第二次世界大戦直前から活動を開始した作家であり、思想家のジョルジュ・バタイユと親交を持ち、これまでの美学では芸術とはされ難い人形を制作した作家であり、その人形を写真に収める事で作品とした作家である。
たったこれだけで、どれだけ大変か、お判りだろうか。
1。シュルレアリスムとは、どういった思想を持ち、その思想はどのような社会的・思想的影響下にあり、また、その活動が社会に対してどのような影響を与えた運動であったのか、知る必要がある。端的に言うと、当時の社会とシュルレアリスムの思想に影響を与えたフロイトと、シュルレアリスムとその前身とも言えるダダイスムに関する美術史を読まねばならない。
2。フランスでの活動が中心であったシュルレアリスムを、当時ドイツ・現在ポーランドに居たベルメールがなぜ知り、選び、それとどのように関わったのか、知る必要がある。ぶっちゃけ、史料が絶望的に少ない。
3。その運動の中で彼がどのような位置を占めたのか、知る必要がある。(ベルメールはシュルレアリスムの主流ではなく、異端児だから、結構大変。)
4。なぜベルメールは制作活動を始めたのか、推測する必要がある(というのも、彼はエンジニアになるべく育てられ、美術学校に通っていた訳でもなく、30にもなってから制作を始めた、というちょっと風変わりな人物であるから)(これは本人が「ナチへの反抗のためだ」って書き残してるから、それで良い気もするけど、それでも、彼はそれ以前から知り合いの自費出版本に挿絵を描いている。挿絵はあくまで本業・印刷工の片手間というか、殆ど仕事と呼べない程度だった様だけれど。ちなみに、この頃からすでに少女ばっかり描いてる。)
5。なぜ彫刻ではなく人形を選び、人形に固執したのか、彼の美学とはどのようなものであったのか、推測する必要がある。人形は通常、民俗学の範疇、博物館の領域であり、美学と美術館の領域に居ない。それなのに、何故、人形なのか。確かに、シュルレアリスムは「オブジェ」という手法を生み出し、日常的に見るものをまったく違う文脈の上に置いたわけだけど、それらは自動筆記よろしく非常に気紛れに選び取られた訳で、ベルメールのように人形のみに固執しはしない。
6。ファースト・ドールには内部構造があった。ヘソの穴から腹をのぞくとパノラマが映し出される、という。しかし、そのファースト・ドールは写真に撮られてシュルレアリストの機関誌に送られた。写真では、内部構造は見えない。暫定的な手段だったのかもしれない。しかし、それではその後も写真を撮り続けた事に説明を付けられない。
7。上記のように、ファースト・ドールには内部構造があったと「書かれている」。ベルメールがフランスに亡命する時にファースト・ドールは失われ、その内部構造が本当にあったのかは、謎。(これはもう「現時点では証明不能」でいいか……)
8。ジョルジュ・バタイユとの関係について詳しく知りたいけど資料がないんですけど。ベルメールがバタイユの小説の挿絵を描いたってことしか知らん!誰か助けて。
と、まぁ。主にベルメールの活動時期前後だけで、これだけの課題があるわけです。しかも、現時点の僕が思いつくだけで、ですよ。教官がツッコミ入れだしたら、きっとこれじゃ終わらない。そしてコレだけ大風呂敷広げたら、僕の卒論は今年で終わらない。五カ年計画が目に見える。(入学から数えて五カ年、ですよ、一応……)
これに加えて、日本への影響なんて考えだしたら……半泣きどころじゃないですよ!!
ただ、日本への影響について考えるとしたら、その利点はまだ当の作家、ベルメールの影響を受けた現代日本の人形作家たちの殆どが存命だってことです。これは素晴らしい利点です。それと同時に危険でもありますけど。ただでさえ僕は客観的じゃないのに、僕は彼らに対して著しく客観性に欠く解釈をつけるでしょう!
それでも、彼らの言葉を書き留める事が、後に人形を解釈する際の手がかりになるのなら……意気地なしでチキンで内弁慶の僕が、頑張って彼らに手紙を書いてみたくなります。
しかし、現在、人形がアングラで人気の様子、彼らは多忙でありましょう。
僕は本当に手紙を書けるのか。返事は来るのか。僕の卒論は完成するのか。明日はくるのか。
「美術史」なんて、「美術」って言葉がついていながら、実はものすごく範囲の広い仕事だと思ってます。マジで。
僕の場合ですら、シュルレアリスムだけじゃなく、ダダイスム、写真学はもちろん、哲学(フロイトやバタイユ)、精神分析(フロイト大先生。でもこれ、学問??)、社会学や社会史や政治史(第二次世界大戦前後のドイツ・フランスの政治的状況や、ナチズムについて)、幾つもの学問に跨がった問題なんですよ。
これは別に僕の場合に限った話じゃなく、かれこれ500年も昔のルネサンスさえ、それ以前の宗教画についての知識も必要だし、文芸復興の思想や当時のイタリアの状況、特にメディチ家の役割だとか、マニエリスムへの影響だとか、ほんとに面倒な事になる。
もっと遡っても良いですよ、ローマ帝政下のカタコンベ美術とかね。これもキリスト教の広まりとそれへの排斥、図像学、出典たる聖書は難解極まりないときた……もうイヤだね!!
ほんと、「史」ってつけると何でもアリになりますね!先輩の仰った事と逆の意味で!!
あーほんと、広範囲の学問に手をだせて、よかった。楽しいですよ!!(泣)
それでも、これを選んで、本当に良かったと思っている。
僕の卒論のテーマは、悲しい哉もう1年半近く前に決定してしまったのだけれど、ドイツのシュルレアリスト、ハンス・ベルメールだ。シュルレアリスム、といえば美術の様式の一つだから、僕は西洋美術のある様式に附いて研究をすればいいわけだ。ふつーに考えるならば!
ところがところが、そうは行かないのが、この美術史という言葉にくっついてる「史」。
3年近く前に、ある先輩が「史学科は楽しい、何でも『史』という言葉をつければ研究対象になるんだから」なーんて言ってたけど、確かにごもっとも……僕は半泣きですよ!!
歴史という学問は。E.H.カーがいみじくも仰った通り、「社会の中にいる人間の過去を研究する手続き」だと僕も信じてる。この、「社会」が厄介なのさ。
ハンス・ベルメールは、シュルレアリストであり、第二次世界大戦直前から活動を開始した作家であり、思想家のジョルジュ・バタイユと親交を持ち、これまでの美学では芸術とはされ難い人形を制作した作家であり、その人形を写真に収める事で作品とした作家である。
たったこれだけで、どれだけ大変か、お判りだろうか。
1。シュルレアリスムとは、どういった思想を持ち、その思想はどのような社会的・思想的影響下にあり、また、その活動が社会に対してどのような影響を与えた運動であったのか、知る必要がある。端的に言うと、当時の社会とシュルレアリスムの思想に影響を与えたフロイトと、シュルレアリスムとその前身とも言えるダダイスムに関する美術史を読まねばならない。
2。フランスでの活動が中心であったシュルレアリスムを、当時ドイツ・現在ポーランドに居たベルメールがなぜ知り、選び、それとどのように関わったのか、知る必要がある。ぶっちゃけ、史料が絶望的に少ない。
3。その運動の中で彼がどのような位置を占めたのか、知る必要がある。(ベルメールはシュルレアリスムの主流ではなく、異端児だから、結構大変。)
4。なぜベルメールは制作活動を始めたのか、推測する必要がある(というのも、彼はエンジニアになるべく育てられ、美術学校に通っていた訳でもなく、30にもなってから制作を始めた、というちょっと風変わりな人物であるから)(これは本人が「ナチへの反抗のためだ」って書き残してるから、それで良い気もするけど、それでも、彼はそれ以前から知り合いの自費出版本に挿絵を描いている。挿絵はあくまで本業・印刷工の片手間というか、殆ど仕事と呼べない程度だった様だけれど。ちなみに、この頃からすでに少女ばっかり描いてる。)
5。なぜ彫刻ではなく人形を選び、人形に固執したのか、彼の美学とはどのようなものであったのか、推測する必要がある。人形は通常、民俗学の範疇、博物館の領域であり、美学と美術館の領域に居ない。それなのに、何故、人形なのか。確かに、シュルレアリスムは「オブジェ」という手法を生み出し、日常的に見るものをまったく違う文脈の上に置いたわけだけど、それらは自動筆記よろしく非常に気紛れに選び取られた訳で、ベルメールのように人形のみに固執しはしない。
6。ファースト・ドールには内部構造があった。ヘソの穴から腹をのぞくとパノラマが映し出される、という。しかし、そのファースト・ドールは写真に撮られてシュルレアリストの機関誌に送られた。写真では、内部構造は見えない。暫定的な手段だったのかもしれない。しかし、それではその後も写真を撮り続けた事に説明を付けられない。
7。上記のように、ファースト・ドールには内部構造があったと「書かれている」。ベルメールがフランスに亡命する時にファースト・ドールは失われ、その内部構造が本当にあったのかは、謎。(これはもう「現時点では証明不能」でいいか……)
8。ジョルジュ・バタイユとの関係について詳しく知りたいけど資料がないんですけど。ベルメールがバタイユの小説の挿絵を描いたってことしか知らん!誰か助けて。
と、まぁ。主にベルメールの活動時期前後だけで、これだけの課題があるわけです。しかも、現時点の僕が思いつくだけで、ですよ。教官がツッコミ入れだしたら、きっとこれじゃ終わらない。そしてコレだけ大風呂敷広げたら、僕の卒論は今年で終わらない。五カ年計画が目に見える。(入学から数えて五カ年、ですよ、一応……)
これに加えて、日本への影響なんて考えだしたら……半泣きどころじゃないですよ!!
ただ、日本への影響について考えるとしたら、その利点はまだ当の作家、ベルメールの影響を受けた現代日本の人形作家たちの殆どが存命だってことです。これは素晴らしい利点です。それと同時に危険でもありますけど。ただでさえ僕は客観的じゃないのに、僕は彼らに対して著しく客観性に欠く解釈をつけるでしょう!
それでも、彼らの言葉を書き留める事が、後に人形を解釈する際の手がかりになるのなら……意気地なしでチキンで内弁慶の僕が、頑張って彼らに手紙を書いてみたくなります。
しかし、現在、人形がアングラで人気の様子、彼らは多忙でありましょう。
僕は本当に手紙を書けるのか。返事は来るのか。僕の卒論は完成するのか。明日はくるのか。
「美術史」なんて、「美術」って言葉がついていながら、実はものすごく範囲の広い仕事だと思ってます。マジで。
僕の場合ですら、シュルレアリスムだけじゃなく、ダダイスム、写真学はもちろん、哲学(フロイトやバタイユ)、精神分析(フロイト大先生。でもこれ、学問??)、社会学や社会史や政治史(第二次世界大戦前後のドイツ・フランスの政治的状況や、ナチズムについて)、幾つもの学問に跨がった問題なんですよ。
これは別に僕の場合に限った話じゃなく、かれこれ500年も昔のルネサンスさえ、それ以前の宗教画についての知識も必要だし、文芸復興の思想や当時のイタリアの状況、特にメディチ家の役割だとか、マニエリスムへの影響だとか、ほんとに面倒な事になる。
もっと遡っても良いですよ、ローマ帝政下のカタコンベ美術とかね。これもキリスト教の広まりとそれへの排斥、図像学、出典たる聖書は難解極まりないときた……もうイヤだね!!
ほんと、「史」ってつけると何でもアリになりますね!先輩の仰った事と逆の意味で!!
あーほんと、広範囲の学問に手をだせて、よかった。楽しいですよ!!(泣)
2008.02.27 ▲
遅い。遅すぎた。僕がこの事を知るのが。
Syrup16gが解散します。武道館でのライブを最後に。(がっちゃん(vo.)はどこぞで「武道館でライブするなら死ぬ」って言ってた気がするんだけど、大丈夫かいな……)(追記:ここにちゃんと書いてありました。でも別のとこで読んだと思う……)
僕は「Syrupはすげー巧い!」とは絶対言いません。僕は技巧に関して無知に等しい。それにSyrupのこと、殆ど知らねーし。相変わらず、音楽自体を重視して、その奏者に対して淡白です。
ただ、曲と歌詞に漂う、もうどうしようもないほどの絶望感と諦観、その上でなおどうにか生きてる姿、に惹かれる。
彼は自分に一切の価値を置かない。その上で、痛みとともに他者を見下す。
どうしようもなく純粋。中二病と言われたらそれまでなくらい、純粋。
いや、純粋でいようと願っている、もがいている、のかも知れないけど。
僕のおすすめは、1stのCoup de'tat、2ndのdelayed。メジャーデビュー前は知らん。(無責任)
1stは攻撃的に、2ndはゆったりと、負け犬根性全開です。僕はこの負け犬ぶりが大好き。
3rdのHellSeeもなかなか。ナイフのように危険な負け犬根性も健在。ただ、音質悪い。それもまた演出なのか??
4thは……僕は、何にも言わない。ただ、この前後からSyrupは売れ始めた。「あーあ、がっちゃん大丈夫かなー?」と思ったのを覚えてます。
案の定というかなんと言うか、5thのSyrup16gをもって、彼らは解散しちゃうそうで。解散して、個々で音楽活動続けるならそれもよし、ふつーに就職してふつーに生きてくれるならそれもよし。しかし、五十嵐氏の今後が不安で仕方がない。自殺してしまうんじゃないかと。
何だこの安っぽいシンパシー。僕もどうかしてる。
あーあ。がっちゃん、大丈夫かなー?
Syrup16gが解散します。武道館でのライブを最後に。(がっちゃん(vo.)はどこぞで「武道館でライブするなら死ぬ」って言ってた気がするんだけど、大丈夫かいな……)(追記:ここにちゃんと書いてありました。でも別のとこで読んだと思う……)
僕は「Syrupはすげー巧い!」とは絶対言いません。僕は技巧に関して無知に等しい。それにSyrupのこと、殆ど知らねーし。相変わらず、音楽自体を重視して、その奏者に対して淡白です。
ただ、曲と歌詞に漂う、もうどうしようもないほどの絶望感と諦観、その上でなおどうにか生きてる姿、に惹かれる。
彼は自分に一切の価値を置かない。その上で、痛みとともに他者を見下す。
どうしようもなく純粋。中二病と言われたらそれまでなくらい、純粋。
いや、純粋でいようと願っている、もがいている、のかも知れないけど。
僕のおすすめは、1stのCoup de'tat、2ndのdelayed。メジャーデビュー前は知らん。(無責任)
1stは攻撃的に、2ndはゆったりと、負け犬根性全開です。僕はこの負け犬ぶりが大好き。
3rdのHellSeeもなかなか。ナイフのように危険な負け犬根性も健在。ただ、音質悪い。それもまた演出なのか??
4thは……僕は、何にも言わない。ただ、この前後からSyrupは売れ始めた。「あーあ、がっちゃん大丈夫かなー?」と思ったのを覚えてます。
案の定というかなんと言うか、5thのSyrup16gをもって、彼らは解散しちゃうそうで。解散して、個々で音楽活動続けるならそれもよし、ふつーに就職してふつーに生きてくれるならそれもよし。しかし、五十嵐氏の今後が不安で仕方がない。自殺してしまうんじゃないかと。
何だこの安っぽいシンパシー。僕もどうかしてる。
あーあ。がっちゃん、大丈夫かなー?
2008.02.22 ▲
書評自体はその1、その2で終わりです。これは蛇足です。
更に細かい点を、僕の癇に障るという理由だけでいくつか挙げます。
・「成熟した日本社会」
本当に、成熟している?? 確かに若くはないだろうけれど、別に成熟してるとも言い難いように僕には見えるのに、何の根拠も示さずに安易にこの言葉を使ってしまう。メディアが『成熟した』と言いまくってるせいかな。こんな語が載る見開きを見た時点から既に、僕はこの人を信用できない。
・ナショナリスト肯定
著者自身は別に積極的に肯定してる訳じゃないけれど、ナショナリティに対して責任を持つ態度を3-3で肯定してまして。
ナショナリズムはその定義からして、僕が大学入学とともに叩き込まれた「国家は想像された共同体に過ぎない」という考えと真っ向対立する訳です。どんな態度であれ、単位が国家である限り、どこかおかしいと思ってしまう。だって彼らは、「ある共同体に対しては責任を持つのに、他の共同体に対しては責任を持たないのは、何故?」という問いに、論理的には答えられないと思う。同じ人間なのに、産まれた地域や属する共同体や言語が違うだけで、どうして責任を持たなくて良いことになるんだか。
それに、僕は誰であれ、僕に対して責任を持っていただきたくない。「責任感を持つ人々」は、強権的で恐い。そういう人々って、著者のだーい好きなフロイト先生の「父親」的・あるいは「母親」的な存在を指すんじゃないですか?ははは。
・「民族主義などという古い概念」
現在主流の民族主義は、第二次世界大戦前程度に産まれた、とても新しい概念です。古来の民族主義とはまったく性質を異にする。世界の現状からしても、とても現代的と言えない概念だというのは理解できますが。それでも現在に於いてまだ禍根を残し続けている。現在生きており、生きているからには変化する概念を、古いと呼べるのか。
また、彼自身がナショナリズムを肯定していながら、民族主義を批判するって、とんでもない矛盾だと、気づかないのだろうか。確かにナショナリティとエスニシティは違うけど、「日本人」を軸に思考するこの人の中で、その区別がついているかどうか非常に怪しい。「日本人」を軸にナショナリティを形成すると、だいたいが「日本国民」(これなら国籍が日本でさえあれば、出身がどこであろうと含まれる)のナショナリティじゃなくて、「日本民族」(これを規定する方法はない。ナチズム的に3代遡って日本人なら「純血」なのか??)のエスニシティにおさめようとするじゃん?
まったく。歴史学の常識も知らんのか。B.アンダーソンの『想像の共同体』を読んでから出直していただきたい。
・オタク文化毛嫌い
この本の副題はきっと、「オタク文化批判」だと思う。ポストモダニズムについて論じているはずなのに、かなりの紙数がオタク文化の為に裂かれています。これだけ批判するなら、別の著書として書いてくれた方が、論理的にすっきりすると思うんですが。その分、ポストモダニズムに裂ける紙数も増えるし。
その上、この著者自身、「デリダ萌え」とか「美少女キャラ」とかオタク文化の用語を使うし、現代の芸能界の話題もちらちら出てくるし、映画を援用したりもする。(「デリダ萌え」は、デリダ崇拝を嘲る意図でこの語を使ってるのかもしれないけど)
大衆を嘲るか、大衆に迎合するか、どっちかはっきりして下さい。と、強く思う。
つか。この人も、哲学ヲタとか中二病とか呼ばれても仕方がないんじゃねーの?
あと。別にオタク文化を弁護したい訳じゃないけど、どんな文化であれ、生まれたてはみんな低俗だったと思いますよ? バレエだって、初めは娼館に近いシロモノだったし。古典絵画のほとんどは、思想に基づくんじゃなくて注文主に左右される工房制作だし。ダダイズムなんて総てをばらばらに分解・再構成しちゃうし。大衆文化はいつもあったものだし、そこから産まれる芸術だって存在していいと思うんだけど。何でこんなに攻撃的なんだか。
それに今時、芸術礼賛なんてバカバカしいと思わないのかな。何を以て芸術を規定するのかってことを考えずに、過去の芸術を礼賛して現在の大衆文化をあげつらうのは、とても足場の危ういことだと思う。もし思想が芸術を規定するなら、確かにオタク文化は思想的なバッグボーンが無いに等しいと思うけど、だから、何? 僕はこのひねくれまくったスノビズム、嫌いじゃない。そもそも、初めに思想ありきの芸術なんて、ほんとに近代になってからのものだろうに。
あ、だから短絡的に「退化」と呼ぶんだ? 初めに思想ありきの芸術が正しいかどうかなんて、まだ決着がついていない。ただ単に、今はそういうモードだっていうだけなのに。そんな事も知らないでこんな風に書くだなんて、美術史をなめくさってますね。はははは。
更に細かい点を、僕の癇に障るという理由だけでいくつか挙げます。
・「成熟した日本社会」
本当に、成熟している?? 確かに若くはないだろうけれど、別に成熟してるとも言い難いように僕には見えるのに、何の根拠も示さずに安易にこの言葉を使ってしまう。メディアが『成熟した』と言いまくってるせいかな。こんな語が載る見開きを見た時点から既に、僕はこの人を信用できない。
・ナショナリスト肯定
著者自身は別に積極的に肯定してる訳じゃないけれど、ナショナリティに対して責任を持つ態度を3-3で肯定してまして。
ナショナリズムはその定義からして、僕が大学入学とともに叩き込まれた「国家は想像された共同体に過ぎない」という考えと真っ向対立する訳です。どんな態度であれ、単位が国家である限り、どこかおかしいと思ってしまう。だって彼らは、「ある共同体に対しては責任を持つのに、他の共同体に対しては責任を持たないのは、何故?」という問いに、論理的には答えられないと思う。同じ人間なのに、産まれた地域や属する共同体や言語が違うだけで、どうして責任を持たなくて良いことになるんだか。
それに、僕は誰であれ、僕に対して責任を持っていただきたくない。「責任感を持つ人々」は、強権的で恐い。そういう人々って、著者のだーい好きなフロイト先生の「父親」的・あるいは「母親」的な存在を指すんじゃないですか?ははは。
・「民族主義などという古い概念」
現在主流の民族主義は、第二次世界大戦前程度に産まれた、とても新しい概念です。古来の民族主義とはまったく性質を異にする。世界の現状からしても、とても現代的と言えない概念だというのは理解できますが。それでも現在に於いてまだ禍根を残し続けている。現在生きており、生きているからには変化する概念を、古いと呼べるのか。
また、彼自身がナショナリズムを肯定していながら、民族主義を批判するって、とんでもない矛盾だと、気づかないのだろうか。確かにナショナリティとエスニシティは違うけど、「日本人」を軸に思考するこの人の中で、その区別がついているかどうか非常に怪しい。「日本人」を軸にナショナリティを形成すると、だいたいが「日本国民」(これなら国籍が日本でさえあれば、出身がどこであろうと含まれる)のナショナリティじゃなくて、「日本民族」(これを規定する方法はない。ナチズム的に3代遡って日本人なら「純血」なのか??)のエスニシティにおさめようとするじゃん?
まったく。歴史学の常識も知らんのか。B.アンダーソンの『想像の共同体』を読んでから出直していただきたい。
・オタク文化毛嫌い
この本の副題はきっと、「オタク文化批判」だと思う。ポストモダニズムについて論じているはずなのに、かなりの紙数がオタク文化の為に裂かれています。これだけ批判するなら、別の著書として書いてくれた方が、論理的にすっきりすると思うんですが。その分、ポストモダニズムに裂ける紙数も増えるし。
その上、この著者自身、「デリダ萌え」とか「美少女キャラ」とかオタク文化の用語を使うし、現代の芸能界の話題もちらちら出てくるし、映画を援用したりもする。(「デリダ萌え」は、デリダ崇拝を嘲る意図でこの語を使ってるのかもしれないけど)
大衆を嘲るか、大衆に迎合するか、どっちかはっきりして下さい。と、強く思う。
つか。この人も、哲学ヲタとか中二病とか呼ばれても仕方がないんじゃねーの?
あと。別にオタク文化を弁護したい訳じゃないけど、どんな文化であれ、生まれたてはみんな低俗だったと思いますよ? バレエだって、初めは娼館に近いシロモノだったし。古典絵画のほとんどは、思想に基づくんじゃなくて注文主に左右される工房制作だし。ダダイズムなんて総てをばらばらに分解・再構成しちゃうし。大衆文化はいつもあったものだし、そこから産まれる芸術だって存在していいと思うんだけど。何でこんなに攻撃的なんだか。
それに今時、芸術礼賛なんてバカバカしいと思わないのかな。何を以て芸術を規定するのかってことを考えずに、過去の芸術を礼賛して現在の大衆文化をあげつらうのは、とても足場の危ういことだと思う。もし思想が芸術を規定するなら、確かにオタク文化は思想的なバッグボーンが無いに等しいと思うけど、だから、何? 僕はこのひねくれまくったスノビズム、嫌いじゃない。そもそも、初めに思想ありきの芸術なんて、ほんとに近代になってからのものだろうに。
あ、だから短絡的に「退化」と呼ぶんだ? 初めに思想ありきの芸術が正しいかどうかなんて、まだ決着がついていない。ただ単に、今はそういうモードだっていうだけなのに。そんな事も知らないでこんな風に書くだなんて、美術史をなめくさってますね。はははは。
2008.02.21 ▲
後半は、もはや思想についてじゃなくて現代社会の現象を云々するんですが、その際用いるのが心理分析とか心理学なんていかがわしいものでして。
僕はフロイト先生を信じませんよ。「彼はもう時代遅れだ」って心理学の分野でもあっさり言われちゃってるじゃないか。何を今更。結局のところ、狂気の「治療」に関して絶大な力を持ったのは、薬剤だった訳じゃないですか。リチウムすげー。
それに心理学や精神医学を云々する前に、狂気は存在すると思うけれど、精神病が存在するかどうかなんて怪しいと思わないのか、と僕は考えるのです。狂気とそれに付随するものは存在するでしょう、けれどそれは本当に「病」なのか? 人間に理解可能なものなのか? 心理分析だとか薬剤で治療しうるのか? あるいは本当に治療すべきなのか?…………。あー。すいません、脱線しました。
で。そんな足場の危うい心理分析なんかを哲学に援用するという無茶苦茶怪しい手法でもって、現代社会を類型化し、切りまくってます。はい、もうお好きにどうぞ。と思ってしまう。僕、カタにはめられるの、大嫌い。人を安易にカタにはめてしまうのも大嫌い。どーせ人類全員ビョーキなんでしょ?ははは。
しかし、この人、ほんとに70年生まれ?? 現代のモードに対して、恐ろしく偏見に満ちています。視野狭窄、あるいは盲目的。
それに、メディアに踊らされる危険性を指摘しながら、この著者自身、かなりメディアに毒されてる印象を受けます。著者の想定する現代社会の姿が、ニュースで日々垂れ流される情報とそっくりの姿をしてる。しかも彼の想定する現代社会は、ほぼ日本限定!何この世界の狭さ!もっと端的に示す言葉は、彼自身がこの著書の中で大衆をあげつらう際に使った「半径5m以内の現実」。それがそのまま彼に返ってくる。彼が想定するのは「半径5m以内の現実」だとしか思えない。
構造の圧力が弱者を産み、そこに社会のしわ寄せが行く、ということを論じながら、弱者であるはずの大衆を忌み嫌ってる印象が強いです。僕も嫌いだけどさ。でもこういうことを論じるからには、彼らが動物的なのは何故か、というところまで考えないのでしょうか。つか、大衆はいつの世も動物的だったんじゃないんでしょうか。どうなの??
つまりは。過去の学者先生方の言説に則って、メディアが垂れ流す現代社会の姿を分析し、異論反論を最初から無視して、自己完結する強権的な訓示を垂れる、と。しかもその訓示はよくみかける・どこにでもある訓示だときた。
この人、本当に今・この社会に生きているの? リアリティが欠如してます。
まとめ。
あーつまり、僕はこの著者のものを言うスタンスが不愉快きわまりない。そもそも、ぜんぜん「ポストモダン」について論じてないしね!!結局概観しただけじゃん!
この著者は、今までの言説で新しいものを本当に理解できるのかどうか、って疑問を考慮してない。明記されない前提条件、不文律が多すぎる。しかもその前提条件・不文律はきちんと吟味されていない、著者の独断と偏見だという印象。
この独断的・強権的な印象を決定づけるのは、自己を相対化してみようとしないこと。つまり、自分の意見と対立する意見を並べてみせて、批評する・考えを深めるという態度にかけている。学者としてどうかと思うし、著作として自己満足に過ぎないと思われる。
僕は、総てを相対化するように教えられた。価値観は変わる、認識の仕方が変われば事実すら姿を変える、絶対的なものはあり得ない。僕らにできるのは、よりマシだと考えられるものを提示する、それくらいなもんでしょう。「かくあるべきだ」なんて、相応の証拠と論理を立ててから言うべきであって、こんなに安易に言っちゃいけない。
学者として語るなら、この程度の謙虚さがあっていいと思うんだけど。
僕はフロイト先生を信じませんよ。「彼はもう時代遅れだ」って心理学の分野でもあっさり言われちゃってるじゃないか。何を今更。結局のところ、狂気の「治療」に関して絶大な力を持ったのは、薬剤だった訳じゃないですか。リチウムすげー。
それに心理学や精神医学を云々する前に、狂気は存在すると思うけれど、精神病が存在するかどうかなんて怪しいと思わないのか、と僕は考えるのです。狂気とそれに付随するものは存在するでしょう、けれどそれは本当に「病」なのか? 人間に理解可能なものなのか? 心理分析だとか薬剤で治療しうるのか? あるいは本当に治療すべきなのか?…………。あー。すいません、脱線しました。
で。そんな足場の危うい心理分析なんかを哲学に援用するという無茶苦茶怪しい手法でもって、現代社会を類型化し、切りまくってます。はい、もうお好きにどうぞ。と思ってしまう。僕、カタにはめられるの、大嫌い。人を安易にカタにはめてしまうのも大嫌い。どーせ人類全員ビョーキなんでしょ?ははは。
しかし、この人、ほんとに70年生まれ?? 現代のモードに対して、恐ろしく偏見に満ちています。視野狭窄、あるいは盲目的。
それに、メディアに踊らされる危険性を指摘しながら、この著者自身、かなりメディアに毒されてる印象を受けます。著者の想定する現代社会の姿が、ニュースで日々垂れ流される情報とそっくりの姿をしてる。しかも彼の想定する現代社会は、ほぼ日本限定!何この世界の狭さ!もっと端的に示す言葉は、彼自身がこの著書の中で大衆をあげつらう際に使った「半径5m以内の現実」。それがそのまま彼に返ってくる。彼が想定するのは「半径5m以内の現実」だとしか思えない。
構造の圧力が弱者を産み、そこに社会のしわ寄せが行く、ということを論じながら、弱者であるはずの大衆を忌み嫌ってる印象が強いです。僕も嫌いだけどさ。でもこういうことを論じるからには、彼らが動物的なのは何故か、というところまで考えないのでしょうか。つか、大衆はいつの世も動物的だったんじゃないんでしょうか。どうなの??
つまりは。過去の学者先生方の言説に則って、メディアが垂れ流す現代社会の姿を分析し、異論反論を最初から無視して、自己完結する強権的な訓示を垂れる、と。しかもその訓示はよくみかける・どこにでもある訓示だときた。
この人、本当に今・この社会に生きているの? リアリティが欠如してます。
まとめ。
あーつまり、僕はこの著者のものを言うスタンスが不愉快きわまりない。そもそも、ぜんぜん「ポストモダン」について論じてないしね!!結局概観しただけじゃん!
この著者は、今までの言説で新しいものを本当に理解できるのかどうか、って疑問を考慮してない。明記されない前提条件、不文律が多すぎる。しかもその前提条件・不文律はきちんと吟味されていない、著者の独断と偏見だという印象。
この独断的・強権的な印象を決定づけるのは、自己を相対化してみようとしないこと。つまり、自分の意見と対立する意見を並べてみせて、批評する・考えを深めるという態度にかけている。学者としてどうかと思うし、著作として自己満足に過ぎないと思われる。
僕は、総てを相対化するように教えられた。価値観は変わる、認識の仕方が変われば事実すら姿を変える、絶対的なものはあり得ない。僕らにできるのは、よりマシだと考えられるものを提示する、それくらいなもんでしょう。「かくあるべきだ」なんて、相応の証拠と論理を立ててから言うべきであって、こんなに安易に言っちゃいけない。
学者として語るなら、この程度の謙虚さがあっていいと思うんだけど。
2008.02.21 ▲
『<ポストモダン>とは何だったのか』(本上まもる 2007 PHP研究所)
読みました。あー図書館で借りてよかった。買ってたらマジでキレてたわ。
どこぞで「Web上で1ページあたり5000字に達したら訪問者は読み難いと感じる」という文を見かけましたが、相変わらずそんなの無視する勢いで書きます。
最初からかなり不愉快でした。
んー。何が、と問われると、いろいろ思い当たるものがあって、かなり困るんだけれど、一番は恐らくこの強権的な書き方だと思う。
「こうでなければならない」とか「昔に比べて現代は……」とか、がんがん決めつけて進んで行くあたりに、強権的な、フロイトっぽい言い回しにすれば「父親」的な匂いがする。
僕はこういう強権的な考え方は大嫌い。ほぼ反射に近い速さと生理的な感触で「イヤだ!!」と反応してしまいます。なので、読みきるのがとてもしんどかった一冊。
本来、嫌いなら読まなきゃいいじゃん、というスタンスの僕だけど、それでも尚読みきったのもまた、この強権的さ故だと思う。嫌いだから、どこか穴を見つけて批判したかった。
さて内容。これも僕としては不愉快というかなんと言うか。
ポストモダニズムを主題とする本であり、ポストモダニズムはフランスが源流なんだから、ヨーロッパの思想家の名前がじゃんじゃん出てきます。というか、出ないと困るでしょう。
僕は歴史専攻なんだから、当然というかなんと言うか、哲学・思想の類いは遠回しにしか関わってこなかった。少しでも触れたのなんて、ソシュール、バルト、バタイユ、フーコーくらいなもの。しかもほんのちょっと。ウェーバーは一冊読んだな。精神医学・心理学とかの怪しげな学問なら、レインとかちょっとは読んださ!(笑)
だから、デリダ、ドゥルーズやガタリ、ハイデガーとなるとかなり訳判らんのですよ。更に、日本の近現代思想なんてもっと訳判らないというか、まったく知りません。体系的に学んだこともないので、思想史も絶望的に知りません。ダメな子です。だからこの本を手に取ったのですよ!!(でもハイデガーが判らないのは、かなり問題あると自覚はしてる)
端的に言うと、まったく「ポストモダン入門」的な本じゃありません。独学か大学で、ある程度の基礎知識が著者と共有できている人を対象とした本です。そしてココ強調、「共有」。
えー僕が近現代史を習った時に遠回しに触れた彼らの思想の解釈や、他学科の授業で触れた彼らの思想の解釈と、この本にある彼らの思想の解釈とではいくらか、あるいはかなりの差があると思うんです。
つーか、この著者、ポストモダニズムの思想を無批判に受け入れているに近いように見える。
歴史家が思想を解釈するのと、思想家が思想を解釈するのとの違いなのかなぁ(ココにはかなりの溝があると僕は思う)。それとも、ただ単に著者が暴走してるだけなのかなぁ。
何にせよ、著者の解釈と「共通」した理解を持ってないと読み難いと思います。
というか……えーと……あるブログの著者が命名(?)した、「自慰言語」に近いものを感じるんですよ。自己の主張を「論理的な」文面に隠し、がんがん決めつけていって、自己完結するような。偏見でしょうけどね。あーほらきっとあれだ、新書だから紙数の制限とかがあって、あまり丁寧な説明が出来ないんだ、そう考えておいた方が僕も楽だ……。どこぞの歴史家が、新書のくせに3巻本で為した大著のことは、この際忘れておきましょう。
こんな感じで、判ったのか判らなかったのかどうかすら判らないまま、前半が終わりました。ただし、これは僕の勉強不足が原因で、著者が悪いんじゃないと思うけど、それでもこれは新書で出すべきではなかったんじゃないかと思う。というのも新書は、知識人が買うとは限らないし、比較的読みやすい啓蒙書が多いと認識されてるから。
この辺で一回切りましょう。一度の投稿あたりの文字制限がどれくらいだったか覚えてないんで。
読みました。あー図書館で借りてよかった。買ってたらマジでキレてたわ。
どこぞで「Web上で1ページあたり5000字に達したら訪問者は読み難いと感じる」という文を見かけましたが、相変わらずそんなの無視する勢いで書きます。
最初からかなり不愉快でした。
んー。何が、と問われると、いろいろ思い当たるものがあって、かなり困るんだけれど、一番は恐らくこの強権的な書き方だと思う。
「こうでなければならない」とか「昔に比べて現代は……」とか、がんがん決めつけて進んで行くあたりに、強権的な、フロイトっぽい言い回しにすれば「父親」的な匂いがする。
僕はこういう強権的な考え方は大嫌い。ほぼ反射に近い速さと生理的な感触で「イヤだ!!」と反応してしまいます。なので、読みきるのがとてもしんどかった一冊。
本来、嫌いなら読まなきゃいいじゃん、というスタンスの僕だけど、それでも尚読みきったのもまた、この強権的さ故だと思う。嫌いだから、どこか穴を見つけて批判したかった。
さて内容。これも僕としては不愉快というかなんと言うか。
ポストモダニズムを主題とする本であり、ポストモダニズムはフランスが源流なんだから、ヨーロッパの思想家の名前がじゃんじゃん出てきます。というか、出ないと困るでしょう。
僕は歴史専攻なんだから、当然というかなんと言うか、哲学・思想の類いは遠回しにしか関わってこなかった。少しでも触れたのなんて、ソシュール、バルト、バタイユ、フーコーくらいなもの。しかもほんのちょっと。ウェーバーは一冊読んだな。精神医学・心理学とかの怪しげな学問なら、レインとかちょっとは読んださ!(笑)
だから、デリダ、ドゥルーズやガタリ、ハイデガーとなるとかなり訳判らんのですよ。更に、日本の近現代思想なんてもっと訳判らないというか、まったく知りません。体系的に学んだこともないので、思想史も絶望的に知りません。ダメな子です。だからこの本を手に取ったのですよ!!(でもハイデガーが判らないのは、かなり問題あると自覚はしてる)
端的に言うと、まったく「ポストモダン入門」的な本じゃありません。独学か大学で、ある程度の基礎知識が著者と共有できている人を対象とした本です。そしてココ強調、「共有」。
えー僕が近現代史を習った時に遠回しに触れた彼らの思想の解釈や、他学科の授業で触れた彼らの思想の解釈と、この本にある彼らの思想の解釈とではいくらか、あるいはかなりの差があると思うんです。
つーか、この著者、ポストモダニズムの思想を無批判に受け入れているに近いように見える。
歴史家が思想を解釈するのと、思想家が思想を解釈するのとの違いなのかなぁ(ココにはかなりの溝があると僕は思う)。それとも、ただ単に著者が暴走してるだけなのかなぁ。
何にせよ、著者の解釈と「共通」した理解を持ってないと読み難いと思います。
というか……えーと……あるブログの著者が命名(?)した、「自慰言語」に近いものを感じるんですよ。自己の主張を「論理的な」文面に隠し、がんがん決めつけていって、自己完結するような。偏見でしょうけどね。あーほらきっとあれだ、新書だから紙数の制限とかがあって、あまり丁寧な説明が出来ないんだ、そう考えておいた方が僕も楽だ……。どこぞの歴史家が、新書のくせに3巻本で為した大著のことは、この際忘れておきましょう。
こんな感じで、判ったのか判らなかったのかどうかすら判らないまま、前半が終わりました。ただし、これは僕の勉強不足が原因で、著者が悪いんじゃないと思うけど、それでもこれは新書で出すべきではなかったんじゃないかと思う。というのも新書は、知識人が買うとは限らないし、比較的読みやすい啓蒙書が多いと認識されてるから。
この辺で一回切りましょう。一度の投稿あたりの文字制限がどれくらいだったか覚えてないんで。
2008.02.21 ▲
僕はいつも、「自分がどうして生きてるのか」とか「自分は何をしてるのか、したいのか、すべきなのか」とか考えてる社会不適合者だから、歴史学についても頻繁に思うことはあります。
でもこの考えはいつも、エリック・ホブズボームという歴史学者の一言のインパクトが強すぎたため、その結論に落ち着いてしまって、それを疑わなくなってきてます。
その一言とは、「歴史学など、何の役にも立たない」という様なこと。この言葉は正確なのか、ホブズボームのどの著書を読んでこの言葉を見たのか、ということも今では忘却の彼方。(せめて専門書くらいは読書記録をつけるべきですね)
ただし、この言葉を字面だけ見ると、まったくさっぱり歴史学に意義がない様に見えますが、そうじゃない。
過去を知ることで現代を相対化し、批判すること、それだけが歴史学にできることであって、一般的に言われるような、物語を造るだとか、未来予測に役立てるとか、そんなことには役に立たないということです。
1年半前にもこうした歴史学の意義についてイカレたテンションで記述したことがあります。
1年半前は、このスタンスにソシュールが加わってる感じです。だいぶ訳判らん、恥ずかしいくらいな記事だけど、僕としては自分自身の変遷が面白い。
そんな訳で、せっかく偉い学者様の説に納得し、それを肯定したんだから、今更疑うことはないんじゃないの?とお思いでしょう。僕も思います。
でも、そういう訳に行かないのが僕という人間。何か決めても、何を考えていても、何処に居ても、何をしていても、どこか居心地の悪さを感じて、他はないかと探す。まさに現実逃避の申し子。
だって。じゃあ美術史って、何の意味があるの?美術そのもの、有用性がないのに。と考えてしまい。いつも、この功利的な社会に認められるような意味なんかない、という結論に達する。
僕は現代を、とても功利的だと認識しています。それというのも、プチ・ブルのような大衆が、権利だけ主張して責任を取らない人々が、その日その日の生活に追われていたり、未来なんていう不確定のもののためだけにあくせく生きている。
なんて至高性のない。
そんな人々にとっては、即物的価値が一番大事です。いま・すぐ・ここで役に立つ事物が大事です。だから、彼らにとっては、美術には金銭的価値か、誰かが付与した意味しかないように思います。つまり、どちらも他者に依存した価値でしかないと思うんです。
何にせよ、まだ「美術」そのものは命脈を保ってます。部屋に絵を飾るのは珍しくないことでしょうしね。
では、美術史は? 「〜派」だとか「〜様式」だとかに分類したり、それらを関連づけたり、何の意味がありましょう。過去の技法等にとらわれない作品が希求されているというのに。
かといって、個々の美術作品について社会との関連を調べても、それは現代社会に何の関係もありません。しかもこの研究は、「社会に対して役に立たなきゃ意味がない」というスタンスとどういう違いがありますか?
僕に、現代社会に有用な美術史は存在しない、という以外の結論は出せません。
僕は困り果てています。
なんでこんなことを言い出したのか、というと、小田中直樹氏の『歴史学ってなんだ?』(PHP研究所 2004)という本を読んで、久しぶりに安易に片付かないくらい歴史について考えたからなんですけどね。
判りやすいけど*、研究者が書いてるだけあって、誠実です。(「正確」とは言い切れない)
僕らの在り方、あるべき姿は、こんな感じ。って伝えるのに、「便利」な一品。
歴史を学ぶことに何の意味もないと考える人にこそ、読んでみて欲しい。あるいは、歴史を物語だと思ってる人にも読んで欲しい。
僕が高校生の頃にこれを読んでいればよかった。そしたら、絶対に史学科に行かなかったのに。
*……判りやすい「けど」という言い方をするのは、この「判りやすさ」を僕らは嫌うから。判りやすい、ということは、物事を簡単に言い切ってしまったり、型に当てはめてしまったりしている、ということ。絡まりあったままの議論を見ても訳判らないでしょ。
そうした、批判や細部を省いた表現は、より善い理解を志向する人にとっては(その理解が十全ではないにしても)弊害でしかない。
でもこの考えはいつも、エリック・ホブズボームという歴史学者の一言のインパクトが強すぎたため、その結論に落ち着いてしまって、それを疑わなくなってきてます。
その一言とは、「歴史学など、何の役にも立たない」という様なこと。この言葉は正確なのか、ホブズボームのどの著書を読んでこの言葉を見たのか、ということも今では忘却の彼方。(せめて専門書くらいは読書記録をつけるべきですね)
ただし、この言葉を字面だけ見ると、まったくさっぱり歴史学に意義がない様に見えますが、そうじゃない。
過去を知ることで現代を相対化し、批判すること、それだけが歴史学にできることであって、一般的に言われるような、物語を造るだとか、未来予測に役立てるとか、そんなことには役に立たないということです。
1年半前にもこうした歴史学の意義についてイカレたテンションで記述したことがあります。
1年半前は、このスタンスにソシュールが加わってる感じです。だいぶ訳判らん、恥ずかしいくらいな記事だけど、僕としては自分自身の変遷が面白い。
そんな訳で、せっかく偉い学者様の説に納得し、それを肯定したんだから、今更疑うことはないんじゃないの?とお思いでしょう。僕も思います。
でも、そういう訳に行かないのが僕という人間。何か決めても、何を考えていても、何処に居ても、何をしていても、どこか居心地の悪さを感じて、他はないかと探す。まさに現実逃避の申し子。
だって。じゃあ美術史って、何の意味があるの?美術そのもの、有用性がないのに。と考えてしまい。いつも、この功利的な社会に認められるような意味なんかない、という結論に達する。
僕は現代を、とても功利的だと認識しています。それというのも、プチ・ブルのような大衆が、権利だけ主張して責任を取らない人々が、その日その日の生活に追われていたり、未来なんていう不確定のもののためだけにあくせく生きている。
なんて至高性のない。
そんな人々にとっては、即物的価値が一番大事です。いま・すぐ・ここで役に立つ事物が大事です。だから、彼らにとっては、美術には金銭的価値か、誰かが付与した意味しかないように思います。つまり、どちらも他者に依存した価値でしかないと思うんです。
何にせよ、まだ「美術」そのものは命脈を保ってます。部屋に絵を飾るのは珍しくないことでしょうしね。
では、美術史は? 「〜派」だとか「〜様式」だとかに分類したり、それらを関連づけたり、何の意味がありましょう。過去の技法等にとらわれない作品が希求されているというのに。
かといって、個々の美術作品について社会との関連を調べても、それは現代社会に何の関係もありません。しかもこの研究は、「社会に対して役に立たなきゃ意味がない」というスタンスとどういう違いがありますか?
僕に、現代社会に有用な美術史は存在しない、という以外の結論は出せません。
僕は困り果てています。
なんでこんなことを言い出したのか、というと、小田中直樹氏の『歴史学ってなんだ?』(PHP研究所 2004)という本を読んで、久しぶりに安易に片付かないくらい歴史について考えたからなんですけどね。
判りやすいけど*、研究者が書いてるだけあって、誠実です。(「正確」とは言い切れない)
僕らの在り方、あるべき姿は、こんな感じ。って伝えるのに、「便利」な一品。
歴史を学ぶことに何の意味もないと考える人にこそ、読んでみて欲しい。あるいは、歴史を物語だと思ってる人にも読んで欲しい。
僕が高校生の頃にこれを読んでいればよかった。そしたら、絶対に史学科に行かなかったのに。
*……判りやすい「けど」という言い方をするのは、この「判りやすさ」を僕らは嫌うから。判りやすい、ということは、物事を簡単に言い切ってしまったり、型に当てはめてしまったりしている、ということ。絡まりあったままの議論を見ても訳判らないでしょ。
そうした、批判や細部を省いた表現は、より善い理解を志向する人にとっては(その理解が十全ではないにしても)弊害でしかない。
2008.02.11 ▲
【Back Issues】
0-0 序論
0-1 序論2
ファム・ファタルについて書くにあたり、いったいどれを最初に持ってこようか、と長いこと悩んでました。
もともと、ファム・ファタルについて書くことにしたきっかけは、莉子さんが「サロメってヤンデレ」だよねって言い出したことなんだから、最初は『サロメ』で書こうと思ってたんですけどね。分析し始めたら、サロメはファム・ファタルとしては異色というか、ファム・ファタルとは呼べない気がしてきた。
じゃあどうしよう。
『椿姫』? 実は彼女も、僕としてはファム・ファタルじゃない。
『ハムレット』のオフェーリア? 彼女はファム・ファタルじゃなくて、ファム・フラジール寄りな気がする……。
『ナジャ』。実は僕、正統シュルレアリストのファム・ファタル像が未だによく判ってないんで、初回にコレは無理。準備が、準備が……(泣)
『ウンディーネ』。これ、書きたい。でも彼女は、ファム・ファタルではないだろう?
『ドラキュラ』。実は僕が持ってるのは洋書で、未だ読めてない(情けない)。
『ナナ』。判りやすくファム・ファタル。でもこれは初回に持ってきたくない!もっとじっくり調べてから書きたい。
『カルメン』。同上。
うーん、僕が予備知識持ってて、はっきりとファム・ファタルという女性像の構築に影響を与えたと言えるテーマは……と安易な方向に流れた末、旧約聖書のエヴァに決定いたしました。
旧約聖書の創世記なら何度か読んでるし、西洋美術の読解には頻繁に関わってくるし、アダムとエヴァを描いた作品は山ほどあるしね。僕は把握しきってないけど。
また、聖書の厚みと記述の省略でも触れたように、旧約聖書は記述が簡素でかつ重複してるために、いくらでも解釈の仕様があって、みんな自分の都合のいいように解釈してきた、という背景もある。
つまり、自由に描かれてきたし、僕も自由に描ける訳だ。(ただし、批判とか罵倒を覚悟の上で。)
そういう訳で、第一回はエヴァに決定です。
彼女の名前は、記述する人によってイヴとかエヴァとか揺れるんで、ここは僕の家にある聖書の記述に従ってエヴァに統一しときます。
できたら、エヴァを題材にした絵画作品の紹介なんかも交えて行こうと思います。
以上、予告編でしたー。
……ものすごく今更だけど、ファム・ファタルに限定しなければ、もっと書きやすいんじゃないのか? いきなりファム・ファタルという主題設定を否定するのも虚しいし、第一その場合はどんなタイトルをつければ良いんだ。『ヨーロッパに於いて構築された女性像に関する考察』なんて、論文並みのタイトルの記事なんて読む気失せるし書く気も失せる。
0-0 序論
0-1 序論2
ファム・ファタルについて書くにあたり、いったいどれを最初に持ってこようか、と長いこと悩んでました。
もともと、ファム・ファタルについて書くことにしたきっかけは、莉子さんが「サロメってヤンデレ」だよねって言い出したことなんだから、最初は『サロメ』で書こうと思ってたんですけどね。分析し始めたら、サロメはファム・ファタルとしては異色というか、ファム・ファタルとは呼べない気がしてきた。
じゃあどうしよう。
『椿姫』? 実は彼女も、僕としてはファム・ファタルじゃない。
『ハムレット』のオフェーリア? 彼女はファム・ファタルじゃなくて、ファム・フラジール寄りな気がする……。
『ナジャ』。実は僕、正統シュルレアリストのファム・ファタル像が未だによく判ってないんで、初回にコレは無理。準備が、準備が……(泣)
『ウンディーネ』。これ、書きたい。でも彼女は、ファム・ファタルではないだろう?
『ドラキュラ』。実は僕が持ってるのは洋書で、未だ読めてない(情けない)。
『ナナ』。判りやすくファム・ファタル。でもこれは初回に持ってきたくない!もっとじっくり調べてから書きたい。
『カルメン』。同上。
うーん、僕が予備知識持ってて、はっきりとファム・ファタルという女性像の構築に影響を与えたと言えるテーマは……と安易な方向に流れた末、旧約聖書のエヴァに決定いたしました。
旧約聖書の創世記なら何度か読んでるし、西洋美術の読解には頻繁に関わってくるし、アダムとエヴァを描いた作品は山ほどあるしね。僕は把握しきってないけど。
また、聖書の厚みと記述の省略でも触れたように、旧約聖書は記述が簡素でかつ重複してるために、いくらでも解釈の仕様があって、みんな自分の都合のいいように解釈してきた、という背景もある。
つまり、自由に描かれてきたし、僕も自由に描ける訳だ。(ただし、批判とか罵倒を覚悟の上で。)
そういう訳で、第一回はエヴァに決定です。
彼女の名前は、記述する人によってイヴとかエヴァとか揺れるんで、ここは僕の家にある聖書の記述に従ってエヴァに統一しときます。
できたら、エヴァを題材にした絵画作品の紹介なんかも交えて行こうと思います。
以上、予告編でしたー。
……ものすごく今更だけど、ファム・ファタルに限定しなければ、もっと書きやすいんじゃないのか? いきなりファム・ファタルという主題設定を否定するのも虚しいし、第一その場合はどんなタイトルをつければ良いんだ。『ヨーロッパに於いて構築された女性像に関する考察』なんて、論文並みのタイトルの記事なんて読む気失せるし書く気も失せる。
2008.02.11 ▲
僕の最近の記事は、ブログとしてはえっらく長い方なんじゃないかと、昨日あたり気づいた。
例えば、先の『聖書の厚みと記述の重複』は1300字余。
だいぶ短いなーと思った『人工音の話 その2』ですら700字近い。
何かが憑いてたかのように書きまくってたあたりの『絵とお金』なんか、2000字近い。
んー。見る人の事をあんまり考えてない感じだねー。
今のブログの利用の状況からすると、簡潔で判りやすい情報や考えを提供する媒体ってイメージ(あくまで僕が他のブログを見てそう感じる、というに過ぎない)だから、こう長ったらしく書くのは合わないんだろうなー。
更に申し訳ない事に、携帯からアクセスして下さってる方にとっては、重くて厄介なシロモノになってると思う。
でもこのスタンスを変えるつもりが毛頭ない僕。
僕の書きたい事を書くだけさ。
ただ……なぜ、勢いさえあれば2000字を簡単に書けるという、この能力を、研究に向けられないんだろう。
僕の卒論のテーマはベルメール。(これは2年生の終わりには確定されてしまった)
でも最近熱心に書いてた記事は、社会史……orz
例えば、先の『聖書の厚みと記述の重複』は1300字余。
だいぶ短いなーと思った『人工音の話 その2』ですら700字近い。
何かが憑いてたかのように書きまくってたあたりの『絵とお金』なんか、2000字近い。
んー。見る人の事をあんまり考えてない感じだねー。
今のブログの利用の状況からすると、簡潔で判りやすい情報や考えを提供する媒体ってイメージ(あくまで僕が他のブログを見てそう感じる、というに過ぎない)だから、こう長ったらしく書くのは合わないんだろうなー。
更に申し訳ない事に、携帯からアクセスして下さってる方にとっては、重くて厄介なシロモノになってると思う。
でもこのスタンスを変えるつもりが毛頭ない僕。
僕の書きたい事を書くだけさ。
ただ……なぜ、勢いさえあれば2000字を簡単に書けるという、この能力を、研究に向けられないんだろう。
僕の卒論のテーマはベルメール。(これは2年生の終わりには確定されてしまった)
でも最近熱心に書いてた記事は、社会史……orz
2008.02.07 ▲
莉子さんからまわってきました、「ノベリストバトン」。果たして僕はノベリストと呼べるのか怪しくなってきた今日この頃、これは「自分を見つめ直す良い機会」の到来か。
●ノベリストバトン
■小説を書いてどれぐらい?
はっきりとは記憶にないのですが、兄が小説を書き始めた時に便乗した覚えがあります。多分、僕が小学生、兄が中学生の頃でしょう。
しかし、僕は大学に入ってからさっぱり小説のたぐいを書かなくなったので、この3年は差し引きたい。
と、すると。6〜9年程度ですか。
■どういった話を書くことが多い?
最初は戦記物っぽいのが好きで。しかしその後……なんつーか耽美というとものすごく誤解を生みそうですが、マイナスのイメージを美化して捉えるようなモノというか……。
まぁ、ファンタジーって言えると言えば言えますか。
■プロット(構成)は立てる派?立てない派?
プロットは立てる派。
立てないと書けないが、完全に決めてしまうと、そこで満足して書く意味を感じなくなる事があるので、不完全な状態で書き始めます。
そして書いて行くうちに、プロットが変わったり変わらなかったり。
■視点は一人称(主観)と三人称、どちらが多い??
基本的に一人称です。しかしどうも下手なようで、一人称のつもりで書いて、三人称だと思われたブツもあります。
■長編体質?短編体質??
とんとんとん、と片付いてしまう短編万歳。
長編は構成する能力が追いつかないでしょうね。
■今まで長編、短編、合わせて何本書いた??
さぁ?完成作の本数自体が少ないですから。
高校以降なら残ってるから数えられるけど、恐らく短編5本。
■今まで書いた話でお気に入りを3つ
僕は5本程度しか書いてないんだよ?!3本も挙げられるか?!
……と思ったけど、僕、自己愛強いんで、挙げちゃいます。
『aBuser』
妻に逃げられたお父さんとその娘の、心暖まる素敵な家族愛の話。(この定義について、僕は一切の抗議を拒否します。コレこそが「家族愛」だ!)
アレは、3部作としては致命的に失敗したと言えるけれど、僕はコレ単体は好き。
これ以降、主要人物に「年齢差のある二人」を据える、というパターンが気に入ってます。
『ゼフィドの抱擁』
画家崩れの贋作師が、友人である画家に騙し返される話。
「ゼフィド」という名前に問題があるので『シディスの抱擁』と改変して、リライト中です。
『子守』
画学校のある優等生が、友人である劣等生の作品を見て、自分の画才のなさを悟る話。
主人公の心情は僕の心情を誇張しただけ、つまり基本は僕と同じです。
物語自体はファンタジー。
■話を書くに当たって、自分なりのこだわり、ルールは?
こだわりとは言えないかもしれないけれど、ハッピーエンドを書かない・書けない。
別にこだわっているつもりはないのだけれど、比較的、主語述語をはっきり書く方だと思う。
■書いている時はBGM有り?無し??
多分、何か聴いてたと思う……。
確実に言えるのは、『子守』『ゼフィド』はSyrup 16gがBGM。
■これから挑戦したい話しや世界観、目標など
目標は、絶望と狂気を語れる人になる事です。
挑戦したい話っつーか、書きたい話、なら。
1。まずは、『シディスの抱擁』。負け犬万歳の僕には、負け犬が負け倒すこの話は愛着のある作品なので、直してあげたい。
2。まだ題未定ですが、廃墟の話。ある高校生二人が、廃墟探索する話です。
3。『ダニエル』という話を考えてました。『シディス』を考えてる過程で、とんでもなく『ゼフィド』とかけ離れたブツを思いついてしまったので、むしろ別物として書こう、と。まだ思いついただけに近い段階で、タイトルもたまたま手元にあったダニエル書を見て適当に名付けました。
■憧れる作家さんを3人
えー、3人って……キツいなぁ。しかも小説家、を選ぶのか、うーん。
マルセル・シュウォップ、中島敦、倉阪鬼一郎
憧れるってーより尊敬してます。特に中島敦。あの漢文調は、潔く力強い、けれど悲しい。
■次に廻す素敵なノベリストを5人
えー。ノベリストの友人は、イコール高校の頃の友人だからなぁ。割と疎遠。そして5人もココを見ててくれるとは思えない。
うーん。じゃあ、見ててくれたなら、瑞月様、ひさめちゃん、赤萩カヤちゃん、お願いします。
ところで。ノベリストとしての自分を見つめ直した結果、僕は『ゼフィド』のアイツよろしく筆を折るべきじゃないか、と思いました。
ではこの辺で。
●ノベリストバトン
■小説を書いてどれぐらい?
はっきりとは記憶にないのですが、兄が小説を書き始めた時に便乗した覚えがあります。多分、僕が小学生、兄が中学生の頃でしょう。
しかし、僕は大学に入ってからさっぱり小説のたぐいを書かなくなったので、この3年は差し引きたい。
と、すると。6〜9年程度ですか。
■どういった話を書くことが多い?
最初は戦記物っぽいのが好きで。しかしその後……なんつーか耽美というとものすごく誤解を生みそうですが、マイナスのイメージを美化して捉えるようなモノというか……。
まぁ、ファンタジーって言えると言えば言えますか。
■プロット(構成)は立てる派?立てない派?
プロットは立てる派。
立てないと書けないが、完全に決めてしまうと、そこで満足して書く意味を感じなくなる事があるので、不完全な状態で書き始めます。
そして書いて行くうちに、プロットが変わったり変わらなかったり。
■視点は一人称(主観)と三人称、どちらが多い??
基本的に一人称です。しかしどうも下手なようで、一人称のつもりで書いて、三人称だと思われたブツもあります。
■長編体質?短編体質??
とんとんとん、と片付いてしまう短編万歳。
長編は構成する能力が追いつかないでしょうね。
■今まで長編、短編、合わせて何本書いた??
さぁ?完成作の本数自体が少ないですから。
高校以降なら残ってるから数えられるけど、恐らく短編5本。
■今まで書いた話でお気に入りを3つ
僕は5本程度しか書いてないんだよ?!3本も挙げられるか?!
……と思ったけど、僕、自己愛強いんで、挙げちゃいます。
『aBuser』
妻に逃げられたお父さんとその娘の、心暖まる素敵な家族愛の話。(この定義について、僕は一切の抗議を拒否します。コレこそが「家族愛」だ!)
アレは、3部作としては致命的に失敗したと言えるけれど、僕はコレ単体は好き。
これ以降、主要人物に「年齢差のある二人」を据える、というパターンが気に入ってます。
『ゼフィドの抱擁』
画家崩れの贋作師が、友人である画家に騙し返される話。
「ゼフィド」という名前に問題があるので『シディスの抱擁』と改変して、リライト中です。
『子守』
画学校のある優等生が、友人である劣等生の作品を見て、自分の画才のなさを悟る話。
主人公の心情は僕の心情を誇張しただけ、つまり基本は僕と同じです。
物語自体はファンタジー。
■話を書くに当たって、自分なりのこだわり、ルールは?
こだわりとは言えないかもしれないけれど、ハッピーエンドを書かない・書けない。
別にこだわっているつもりはないのだけれど、比較的、主語述語をはっきり書く方だと思う。
■書いている時はBGM有り?無し??
多分、何か聴いてたと思う……。
確実に言えるのは、『子守』『ゼフィド』はSyrup 16gがBGM。
■これから挑戦したい話しや世界観、目標など
目標は、絶望と狂気を語れる人になる事です。
挑戦したい話っつーか、書きたい話、なら。
1。まずは、『シディスの抱擁』。負け犬万歳の僕には、負け犬が負け倒すこの話は愛着のある作品なので、直してあげたい。
2。まだ題未定ですが、廃墟の話。ある高校生二人が、廃墟探索する話です。
3。『ダニエル』という話を考えてました。『シディス』を考えてる過程で、とんでもなく『ゼフィド』とかけ離れたブツを思いついてしまったので、むしろ別物として書こう、と。まだ思いついただけに近い段階で、タイトルもたまたま手元にあったダニエル書を見て適当に名付けました。
■憧れる作家さんを3人
えー、3人って……キツいなぁ。しかも小説家、を選ぶのか、うーん。
マルセル・シュウォップ、中島敦、倉阪鬼一郎
憧れるってーより尊敬してます。特に中島敦。あの漢文調は、潔く力強い、けれど悲しい。
■次に廻す素敵なノベリストを5人
えー。ノベリストの友人は、イコール高校の頃の友人だからなぁ。割と疎遠。そして5人もココを見ててくれるとは思えない。
うーん。じゃあ、見ててくれたなら、瑞月様、ひさめちゃん、赤萩カヤちゃん、お願いします。
ところで。ノベリストとしての自分を見つめ直した結果、僕は『ゼフィド』のアイツよろしく筆を折るべきじゃないか、と思いました。
ではこの辺で。
2008.02.07 ▲
久しぶりに聖書を開きました。ちょいとした用事で旧約聖書のダニエル書を。
1時間もあれば余裕で読み終わるんですけどね、ダニエル書。精読するときっと一生捧げても足らないんだろうなぁ、ははは。怖ぇーや聖書学。
つーか、聖書の「古代の書物」という性質上、全般的に短く書かれてるんです。新旧合わせて集めると、あのペラっペラな紙質ですら5cmほどにもなりますが。(正直、今時の辞書なんか目じゃねー重みです。さすが。)
えー。以下は大学の講義の受け売りが大半を占めます。誤解や記憶違いと思しき記述があったら、是非ご指摘下さい。その講義について、気になる方はコメントなりメールなり、連絡下されば教官の著書をご紹介します。
全般的に短い理由としては、経済と運搬の問題。
昔は現代のような安価で薄くて軽くて丈夫な紙なんて存在しなくて、パピルスやら石盤やらに書きつける訳です。だから、長文になればなるほど費用も嵩むし持ち運びも難しくなって行く。自然、簡潔で且つ的を射た「要約」をして記述できる事が重視された訳です。この時点では、無駄な記述はカットして良い、という風潮だった様です。
あの厚みの理由としては、キリスト教もユダヤ教も最初から宗教として統一されてた訳でもないので、聖書の書記者が複数居る訳です。けれど、後の福音原理主義みたいな人々が、「聖書の文言は一言一句たりとも改変してはならん」と言い出したので、「しょーがねーや、全部載せちゃえばいいんじゃねー?」というような態度で、それら総て(といっても信憑性を云々して正典・外典・偽典と分類してますが)聖書として規定して、一冊にまとめてるんです。
判りやすいであろう例としては、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書。みーんなイエスの生誕から受難、復活までを記した書物、という点では共通します。ところが書き手によって内容が違う(中でもヨハネはめっちゃ違う)。でも一言一句変えちゃ行けないから、編集して重複してる記述は削除する、なんて事は出来ない。
じゃーぜーんぶ福音書でいーじゃーん!
……なんていい加減な態度ではないんですけどね、ほんとは。何で僕が書くとこんなにいい加減な感じになるんだろう。別に僕も不真面目なつもりはないんだけどなぁ……。
ちなみに、旧約ではもっと混沌としてます。複数の書記者がおり、それを切り貼りしてつなげてると言われています。文体や、神の呼称(「エル」「ヤーウェ」「主」...etwa)に因って、4人の書記者が居たのではないか、と言われているそうです。(ちなみに僕は、ギリシャ語もコプト語もヘブライ語もアラム語も判らないので、日本語訳の時点で翻訳者が適当に変えてるんだと勝手に思ってました)
創世記なんかひどいものです。真面目に頭から読むと、神が2度ほど天地創造なさいます。人間の創造も、「まずアダムを造り、次にエヴァ」というエピソードが有名ですが、実はその前に「男女を造った。」という記述がちゃっかりあります。
どうやらこの混沌の背景にはペルシアが絡んでくる様ですが……。何でも、ユダヤは当時、ペルシアに支配されており、中央集権国家であったその政府が、「信仰の自由は認める。けれど、信仰を統一しなさい」と命じた様です。まぁ、行政側としては、A教B派、A教C派……なんて分裂されても厄介なだけでしょうしね……。それで、統一した聖典、聖書を編纂する事になり、で、上記の通り、一言一句改変しなかったために混沌とした聖典ができあがった、と。
しかしなぁ。我ながら、いかがなものか、この要約。うーん。
……あああ!どうか、H教官がこのページをみませんように!(泣)
あ。ここまで書いて気づきましたが、肝心のダニエル書に触れてませんね。
まぁ。また後日。
1時間もあれば余裕で読み終わるんですけどね、ダニエル書。精読するときっと一生捧げても足らないんだろうなぁ、ははは。怖ぇーや聖書学。
つーか、聖書の「古代の書物」という性質上、全般的に短く書かれてるんです。新旧合わせて集めると、あのペラっペラな紙質ですら5cmほどにもなりますが。(正直、今時の辞書なんか目じゃねー重みです。さすが。)
えー。以下は大学の講義の受け売りが大半を占めます。誤解や記憶違いと思しき記述があったら、是非ご指摘下さい。その講義について、気になる方はコメントなりメールなり、連絡下されば教官の著書をご紹介します。
全般的に短い理由としては、経済と運搬の問題。
昔は現代のような安価で薄くて軽くて丈夫な紙なんて存在しなくて、パピルスやら石盤やらに書きつける訳です。だから、長文になればなるほど費用も嵩むし持ち運びも難しくなって行く。自然、簡潔で且つ的を射た「要約」をして記述できる事が重視された訳です。この時点では、無駄な記述はカットして良い、という風潮だった様です。
あの厚みの理由としては、キリスト教もユダヤ教も最初から宗教として統一されてた訳でもないので、聖書の書記者が複数居る訳です。けれど、後の福音原理主義みたいな人々が、「聖書の文言は一言一句たりとも改変してはならん」と言い出したので、「しょーがねーや、全部載せちゃえばいいんじゃねー?」というような態度で、それら総て(といっても信憑性を云々して正典・外典・偽典と分類してますが)聖書として規定して、一冊にまとめてるんです。
判りやすいであろう例としては、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書。みーんなイエスの生誕から受難、復活までを記した書物、という点では共通します。ところが書き手によって内容が違う(中でもヨハネはめっちゃ違う)。でも一言一句変えちゃ行けないから、編集して重複してる記述は削除する、なんて事は出来ない。
じゃーぜーんぶ福音書でいーじゃーん!
……なんていい加減な態度ではないんですけどね、ほんとは。何で僕が書くとこんなにいい加減な感じになるんだろう。別に僕も不真面目なつもりはないんだけどなぁ……。
ちなみに、旧約ではもっと混沌としてます。複数の書記者がおり、それを切り貼りしてつなげてると言われています。文体や、神の呼称(「エル」「ヤーウェ」「主」...etwa)に因って、4人の書記者が居たのではないか、と言われているそうです。(ちなみに僕は、ギリシャ語もコプト語もヘブライ語もアラム語も判らないので、日本語訳の時点で翻訳者が適当に変えてるんだと勝手に思ってました)
創世記なんかひどいものです。真面目に頭から読むと、神が2度ほど天地創造なさいます。人間の創造も、「まずアダムを造り、次にエヴァ」というエピソードが有名ですが、実はその前に「男女を造った。」という記述がちゃっかりあります。
どうやらこの混沌の背景にはペルシアが絡んでくる様ですが……。何でも、ユダヤは当時、ペルシアに支配されており、中央集権国家であったその政府が、「信仰の自由は認める。けれど、信仰を統一しなさい」と命じた様です。まぁ、行政側としては、A教B派、A教C派……なんて分裂されても厄介なだけでしょうしね……。それで、統一した聖典、聖書を編纂する事になり、で、上記の通り、一言一句改変しなかったために混沌とした聖典ができあがった、と。
しかしなぁ。我ながら、いかがなものか、この要約。うーん。
……あああ!どうか、H教官がこのページをみませんように!(泣)
あ。ここまで書いて気づきましたが、肝心のダニエル書に触れてませんね。
まぁ。また後日。
2008.02.04 ▲
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人間と感情的な部分で深く関わりたくなくて、ある人に悲しい思いをさせてまして。
僕としては、こういう風に生きてる時の方がすごく楽です。意俊也。65DaysOfStatic先程のコメントは私信についてのものです。桜居65DaysOfStaticもし見当違いなことを言っていたらごめん。
君は書くべきだ。書かずにはいられないのなら書くべきだ。その衝動に正直になるべきだ。誰のためでもなく自分のために。そのと桜居