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先日の記事で書いた事の追記。というか、今3分くらいで考えた結論。
>自然そのまま、あるいは人間そのものなら人間的なのに、人間が手を加えたもの、あるいは人間が作り出したものは人間的でない
これは間違い。だと思う。
人間が直接作り出すものまでは、人間的。手工業ならそんなもん。「手作りのものって暖かみがあるよねー」とか、よく言われるね。
人間が、機械(not器械)を通して作り出したもの、これが非人間的。
何故器械を省くかと言うと、電子的でない、簡単な器具を使って造られたものは、人間が主体となって造っている事が明白だから。器械ではなく機械だと、人間が造ってるのか造らされてるのか判らなくなる。
>Live CDは生の録音そのまま(のはず)。この場合は、加工されたもの?生のもの?
これは、「加工されたもの」。
ライブCDって、曲の前後のMCや客の歓声くらいは含むけど、その他の部分が削られて編集される訳だ。SlipknotのLiveCDなんか、世界ツアーの時の曲をかき集めて作ったもので、良い例だと思う。
文脈として、実はつながってなんか居ない。分断され、細分化され、再編集されたら、とても「生のもの」とは言えない。
その上、LiveCDには、視覚の要素が欠ける。LiveDVDには触覚の要素が欠ける。そしてどちらも、まさにその時その場に居るという現実に欠けている。
そういう訳で、LiveCD or DVDって、「生のもの」としても中途半端で、「加工されたもの」としての魅力にも欠ける、如何ともし難いものだと僕は思う。
んー。我ながら、どちらも違和感の残る定義だ。
まぁ、またそのうち。
>自然そのまま、あるいは人間そのものなら人間的なのに、人間が手を加えたもの、あるいは人間が作り出したものは人間的でない
これは間違い。だと思う。
人間が直接作り出すものまでは、人間的。手工業ならそんなもん。「手作りのものって暖かみがあるよねー」とか、よく言われるね。
人間が、機械(not器械)を通して作り出したもの、これが非人間的。
何故器械を省くかと言うと、電子的でない、簡単な器具を使って造られたものは、人間が主体となって造っている事が明白だから。器械ではなく機械だと、人間が造ってるのか造らされてるのか判らなくなる。
>Live CDは生の録音そのまま(のはず)。この場合は、加工されたもの?生のもの?
これは、「加工されたもの」。
ライブCDって、曲の前後のMCや客の歓声くらいは含むけど、その他の部分が削られて編集される訳だ。SlipknotのLiveCDなんか、世界ツアーの時の曲をかき集めて作ったもので、良い例だと思う。
文脈として、実はつながってなんか居ない。分断され、細分化され、再編集されたら、とても「生のもの」とは言えない。
その上、LiveCDには、視覚の要素が欠ける。LiveDVDには触覚の要素が欠ける。そしてどちらも、まさにその時その場に居るという現実に欠けている。
そういう訳で、LiveCD or DVDって、「生のもの」としても中途半端で、「加工されたもの」としての魅力にも欠ける、如何ともし難いものだと僕は思う。
んー。我ながら、どちらも違和感の残る定義だ。
まぁ、またそのうち。
2008.01.30 ▲
最近、テクノっぽい音楽にどっぷりです。ToolやNine Inch Nailsが好き。
それで、思うのだけれど。
ぴこぴこ打ち込み電子音のドラムが、以前は嫌いだったんです。某メロデスバンドとか特に。
そ。れ。が。今や、電子音も良いじゃないかと。むしろ、加工された音って面白いと。思うように。
某メロデスバンドは、本来人間がやるべきパートを、電子音で代用してるように思われる。それに対し、テクノっぽいのとかHipHopとかって、電子音をさらに分断・再編集を繰り返して曲を作っている。
僕は後者が、正しいかどうかは別にして、好ましい電子音の使い方なんじゃないかと思う。
人間が受け持つべき部分を電子音で代用すると、違和感がある。人間的なブレがないから。
しかし、最初から人工的なパート、あるいはパーツだったら、電子音でも全く問題がない。むしろ、人間が造る音を加工するよりも、しっくりと馴染むかもしれない。
えー。変な例を引こうと思う。
今更ながら、アレだ、ボーカロイド・初音ミク。あるいはその姉妹品、リン・レンでもよし。
彼女(?)の歌う曲で、ふつーの歌は、どこか違和感がある。それが常につきまとう。透明な感じの声で奇麗だと思うんだけれど、電子音らしさが拭えない。抑揚の問題もあるが、声の質がどうしても人間味に欠ける。どこかぱきぱきしてるんだよね。ものによっては、バキバキだし。
ところが、トランスとなると、さして違和感を覚えずに聴ける。下手すると、人間より巧いんじゃねーの?と思う。ボーカルがぱきぱきしてて良い、人間味よりも人工的な性質を持つ曲だから。
特にリン・レンは特筆したい、「口ギター」!
某動画サイトで見かけたんだが、Dragon Forceの曲の、ほんとはギターが担当する部分を、彼らが歌うw 人間じゃ、絶対に無理w
ギターの方がもちろん格好いいんだろうけれど、アレはアレで人工音の巧い使い方だと、僕は勝手に思っている。ロックやメタルでのギターも、アンプを通して加工された音であるという点に於いては、同じだし。アコギのような人間的なブレよりも、人工的な完璧さの方が優先。
というわけで、「人工的な音は、人工的に使った方が、自然なのだ」と、ロジックとしてどこかおかしい事を主張したい。
思う事。
*人間的である事と、人工的である事とは、一文字しか違わないのに、意味するところは全く違うって面白い。
自然そのまま、あるいは人間そのものなら人間的なのに、人間が手を加えたもの、あるいは人間が作り出したものは人間的でないって。どこか矛盾しているようで、面白い。
*Live CDは生の録音そのまま(のはず)。曲自体は再編集されていないはず、しかしLiveの雰囲気というものに致命的に欠く。この場合は、加工されたもの?生のもの?
それで、思うのだけれど。
ぴこぴこ打ち込み電子音のドラムが、以前は嫌いだったんです。某メロデスバンドとか特に。
そ。れ。が。今や、電子音も良いじゃないかと。むしろ、加工された音って面白いと。思うように。
某メロデスバンドは、本来人間がやるべきパートを、電子音で代用してるように思われる。それに対し、テクノっぽいのとかHipHopとかって、電子音をさらに分断・再編集を繰り返して曲を作っている。
僕は後者が、正しいかどうかは別にして、好ましい電子音の使い方なんじゃないかと思う。
人間が受け持つべき部分を電子音で代用すると、違和感がある。人間的なブレがないから。
しかし、最初から人工的なパート、あるいはパーツだったら、電子音でも全く問題がない。むしろ、人間が造る音を加工するよりも、しっくりと馴染むかもしれない。
えー。変な例を引こうと思う。
今更ながら、アレだ、ボーカロイド・初音ミク。あるいはその姉妹品、リン・レンでもよし。
彼女(?)の歌う曲で、ふつーの歌は、どこか違和感がある。それが常につきまとう。透明な感じの声で奇麗だと思うんだけれど、電子音らしさが拭えない。抑揚の問題もあるが、声の質がどうしても人間味に欠ける。どこかぱきぱきしてるんだよね。ものによっては、バキバキだし。
ところが、トランスとなると、さして違和感を覚えずに聴ける。下手すると、人間より巧いんじゃねーの?と思う。ボーカルがぱきぱきしてて良い、人間味よりも人工的な性質を持つ曲だから。
特にリン・レンは特筆したい、「口ギター」!
某動画サイトで見かけたんだが、Dragon Forceの曲の、ほんとはギターが担当する部分を、彼らが歌うw 人間じゃ、絶対に無理w
ギターの方がもちろん格好いいんだろうけれど、アレはアレで人工音の巧い使い方だと、僕は勝手に思っている。ロックやメタルでのギターも、アンプを通して加工された音であるという点に於いては、同じだし。アコギのような人間的なブレよりも、人工的な完璧さの方が優先。
というわけで、「人工的な音は、人工的に使った方が、自然なのだ」と、ロジックとしてどこかおかしい事を主張したい。
思う事。
*人間的である事と、人工的である事とは、一文字しか違わないのに、意味するところは全く違うって面白い。
自然そのまま、あるいは人間そのものなら人間的なのに、人間が手を加えたもの、あるいは人間が作り出したものは人間的でないって。どこか矛盾しているようで、面白い。
*Live CDは生の録音そのまま(のはず)。曲自体は再編集されていないはず、しかしLiveの雰囲気というものに致命的に欠く。この場合は、加工されたもの?生のもの?
2008.01.26 ▲
久々にアタリを引いたー!!
65DaysOfStaticというバンドをご存知でしょうか。知らないでしょう、きっと。僕も知らないよ。ジャケ見て何となくレンタルしただけですよ。ちなみにアルバム名は"One Time for All Time"。黒い紙ジャケだったと思う。
ところがコレ、見事に僕の趣味にハマった。バイト帰りの19時過ぎに零度を切る気温の最中、自転車を20分(往復で40分だな)キコキコこぐなんて自虐的なマネをした価値があった。
テンポはゆったりめだけど、心拍よりちょっと早い(こういう表現するあたり、僕はなんて本能だけで音楽を聴いてるんだろうって思う)。同じモチーフを繰り返していく中で、表情が様々に移り変わってく印象。ピアノだとかクレッシェンドだとかクライマックスだとか、クラシックの用語がそのまま使えそうで。そしてピアノが美しい。主役だけど主役じゃない、調和してる。そして、某メロデスバンドと通じる部分もあるような(笑)
Wikipediaの記事によれば、コレ、ポストロックだそうですが、僕はロックというよりテクノっぽい印象を受けた。
というのも、あるモチーフがループする、けれどループする単調さがない、表情を少しずつ変え続ける感じ。ブレイクビーツなんて手法、初めて聞いたけど、調べてみたら、ものっすごく人工的というか「加工された」「機械的」ってイメージの手法じゃありませんか。僕にとっては「テクノ」って、ダンスミュージックってイメージより、機械的ってイメージの方が強いんで。
でも確かに、ベースが効いてるし、ギターが美しい(っつーか僕好みなだけだけど)、打ち込みぴこぴこ電子音をほとんど使ってない(という印象だ)から……うー、音楽のジャンルって難しいし、いっそ型にはめないほうが良いんじゃないかなと思い直した、今。
ただ、難点は、時々呼吸が合わない。僕と音楽のリズムとの、呼吸。
ボーカルじゃねーっすよ、全曲インストだから。
まぁ。僕のリズム感がおかしいって話なだけですけど。
ところで。誰か僕に音楽というものを教えてくれませんか。割とマジで。
音楽を聴いていて、コレはどの楽器、っていうのが基本的な部分しか判らないし、用語も殆ど知らない。そうすると、人に「これ、イイ!」って勧める時に、巧く説明できない。
音感もリズム感もおかしいし、僕がちゃんと習ったのはバイエルですよ、どうせ。吹奏楽で2ndトランペットやった事もあるけど、なーんにも判ってなかったんだなーって、今更思う。
65DaysOfStaticというバンドをご存知でしょうか。知らないでしょう、きっと。僕も知らないよ。ジャケ見て何となくレンタルしただけですよ。ちなみにアルバム名は"One Time for All Time"。黒い紙ジャケだったと思う。
ところがコレ、見事に僕の趣味にハマった。バイト帰りの19時過ぎに零度を切る気温の最中、自転車を20分(往復で40分だな)キコキコこぐなんて自虐的なマネをした価値があった。
テンポはゆったりめだけど、心拍よりちょっと早い(こういう表現するあたり、僕はなんて本能だけで音楽を聴いてるんだろうって思う)。同じモチーフを繰り返していく中で、表情が様々に移り変わってく印象。ピアノだとかクレッシェンドだとかクライマックスだとか、クラシックの用語がそのまま使えそうで。そしてピアノが美しい。主役だけど主役じゃない、調和してる。そして、某メロデスバンドと通じる部分もあるような(笑)
Wikipediaの記事によれば、コレ、ポストロックだそうですが、僕はロックというよりテクノっぽい印象を受けた。
というのも、あるモチーフがループする、けれどループする単調さがない、表情を少しずつ変え続ける感じ。ブレイクビーツなんて手法、初めて聞いたけど、調べてみたら、ものっすごく人工的というか「加工された」「機械的」ってイメージの手法じゃありませんか。僕にとっては「テクノ」って、ダンスミュージックってイメージより、機械的ってイメージの方が強いんで。
でも確かに、ベースが効いてるし、ギターが美しい(っつーか僕好みなだけだけど)、打ち込みぴこぴこ電子音をほとんど使ってない(という印象だ)から……うー、音楽のジャンルって難しいし、いっそ型にはめないほうが良いんじゃないかなと思い直した、今。
ただ、難点は、時々呼吸が合わない。僕と音楽のリズムとの、呼吸。
ボーカルじゃねーっすよ、全曲インストだから。
まぁ。僕のリズム感がおかしいって話なだけですけど。
ところで。誰か僕に音楽というものを教えてくれませんか。割とマジで。
音楽を聴いていて、コレはどの楽器、っていうのが基本的な部分しか判らないし、用語も殆ど知らない。そうすると、人に「これ、イイ!」って勧める時に、巧く説明できない。
音感もリズム感もおかしいし、僕がちゃんと習ったのはバイエルですよ、どうせ。吹奏楽で2ndトランペットやった事もあるけど、なーんにも判ってなかったんだなーって、今更思う。
2008.01.19 ▲
Mac Book Air、出ましたね。一足か二足くらい遅いレヴューですが。
厚さ2cmを切るノートPCというよりモバイルPC。いや、MacってPCじゃないらしいんだけどね、厳密には。
えー。実は、僕のまだ3年程度のMac Book、数ヶ月前からHDDエラーをたたき出し、先月辺りからはクリーン・インストールを繰り返さなければ動かないという有様。多分、人がバックアップを取る頻度、あるいはディスク・デフラグをする頻度でクリーン・インストールしてます。あんまりな有様だし、HDDエラーな時点で買い替えを検討してたんですが、「もうすぐ新しいMac Bookが出る!」という情報を頼みに誤摩化し誤魔化し使っていました。
で、やっと出たーっつー事でAppleストアで機能を確認したら。この度出ましたMac Book Airは、機能を切り詰め切り詰め、あの薄さを実現した訳ですよ。
光学ドライブ削り、Ethernet削り、Coreもちょい前のintel Core 2 Duo積んだMac Bookの2.0Ghzより遅い1.6Ghz。HDDは80G。あの薄さでバッテリどうなってんの?という疑問も。メモリだけは、Mac Bookが1Gに対してAirは2Gだけど。でも、Macの最新OS、Leopardは「Win Vistaと違ってメモリ1Gも要らないよー」的な事言ってるはずなんですけど。
僕のよーな、ただ文書作成とネットと音楽に使えれば良い、しかも使うのは家の中が中心、なんて人間には、Airは割とどうでもいい感じです。普通のMac Bookでいいや。とにかく欲しい。HDDが壊れてないヤツが欲しい。
別にMacのHDDが脆弱だなんて言ってないですよ、だってこの子のHDD、富士通製だもんっ。それに、HDDは当たり外れがあるし、ある日突然昇天するモノだと決まっているし。まだ動いてる分、マシ(泣)
僕がMac Bookにこだわるのは、タワー型を置いて部屋を狭くしたくないってだけ。あと、この3年間で3回引越しをしてるからか、持ち物は少なく、小さい方が良いって考える癖がついたから。この先も放浪する気でいるのかね、僕は。
ちなみにMacintoshにこだわるのは、感覚的に操作できるって点と慣れと、外観からOSやソフトに至るまでデザインが美しいって点です。
バイト先でWinをいじる事が多いですけど、つくづく美しくないって思ってしまう。Vistaでキレイめを狙った感があるけど、やっぱり野暮ったい。ポップって言えば、可愛らしく聞こえるかもね。
そもそもVistaで追加された機能って、Mac OS Xの時点で装備された機能の真似ばかりっぽく見える。バイト先で扱ってるくせに、利点が思いつかん。メモリ、最低でも1G要するって時点で、厄介。まだハードウェアが追いついてない感じだから、現時点ではVistaよりXPの方が良いんじゃないかなぁ。ノートでVista乗せたら、絶望的ですよ、メモリ増設せにゃ。
ソフト面でも、確かにWinの方が広く使われてる分だけ、多彩なソフトありますね。でも、標準装備の機能が少なすぎる気がする。ネットだけなら別にいいけど、いろいろ追加してくと、Winの方が高くつくんじゃないかなぁ。その分、Winの方がカスタマイズの自由度が高いし、ハードウェア面でもPC自作ができる訳だけど。
Mac、ソフト少ない少ないと言われてますけど、僕が知る限りでは、フリーソフトなんか量も種類も結構あるし、フリーのくせに質が高いと勝手に思ってます。OnyXとMac Journalは愛用品。
うーん。Winの利点って、何? Macの利点も、よく判らないけど。
そうそう。Macのウリと言えば、「ウィルスに感染しない」ってのもありますが、そりゃ「日本のMacユーザーなんて4%だ」なんて話もあるくらい、ユーザーが少ないから、ウィルスをバラ撒いたところで、影響なんて少ないから狙われないってだけなんですよね。
ちなみに僕は、for Macのノートンを入れた事がありますが、返ってカーネルクラッシュ的な不具合が発生して、慌てて引っこ抜いた事があります。その後、ウィルス対策ソフトは全く入れてませんが、今日も僕のMacは元気です。
HDD以外は。
厚さ2cmを切るノートPCというよりモバイルPC。いや、MacってPCじゃないらしいんだけどね、厳密には。
えー。実は、僕のまだ3年程度のMac Book、数ヶ月前からHDDエラーをたたき出し、先月辺りからはクリーン・インストールを繰り返さなければ動かないという有様。多分、人がバックアップを取る頻度、あるいはディスク・デフラグをする頻度でクリーン・インストールしてます。あんまりな有様だし、HDDエラーな時点で買い替えを検討してたんですが、「もうすぐ新しいMac Bookが出る!」という情報を頼みに誤摩化し誤魔化し使っていました。
で、やっと出たーっつー事でAppleストアで機能を確認したら。この度出ましたMac Book Airは、機能を切り詰め切り詰め、あの薄さを実現した訳ですよ。
光学ドライブ削り、Ethernet削り、Coreもちょい前のintel Core 2 Duo積んだMac Bookの2.0Ghzより遅い1.6Ghz。HDDは80G。あの薄さでバッテリどうなってんの?という疑問も。メモリだけは、Mac Bookが1Gに対してAirは2Gだけど。でも、Macの最新OS、Leopardは「Win Vistaと違ってメモリ1Gも要らないよー」的な事言ってるはずなんですけど。
僕のよーな、ただ文書作成とネットと音楽に使えれば良い、しかも使うのは家の中が中心、なんて人間には、Airは割とどうでもいい感じです。普通のMac Bookでいいや。とにかく欲しい。HDDが壊れてないヤツが欲しい。
別にMacのHDDが脆弱だなんて言ってないですよ、だってこの子のHDD、富士通製だもんっ。それに、HDDは当たり外れがあるし、ある日突然昇天するモノだと決まっているし。まだ動いてる分、マシ(泣)
僕がMac Bookにこだわるのは、タワー型を置いて部屋を狭くしたくないってだけ。あと、この3年間で3回引越しをしてるからか、持ち物は少なく、小さい方が良いって考える癖がついたから。この先も放浪する気でいるのかね、僕は。
ちなみにMacintoshにこだわるのは、感覚的に操作できるって点と慣れと、外観からOSやソフトに至るまでデザインが美しいって点です。
バイト先でWinをいじる事が多いですけど、つくづく美しくないって思ってしまう。Vistaでキレイめを狙った感があるけど、やっぱり野暮ったい。ポップって言えば、可愛らしく聞こえるかもね。
そもそもVistaで追加された機能って、Mac OS Xの時点で装備された機能の真似ばかりっぽく見える。バイト先で扱ってるくせに、利点が思いつかん。メモリ、最低でも1G要するって時点で、厄介。まだハードウェアが追いついてない感じだから、現時点ではVistaよりXPの方が良いんじゃないかなぁ。ノートでVista乗せたら、絶望的ですよ、メモリ増設せにゃ。
ソフト面でも、確かにWinの方が広く使われてる分だけ、多彩なソフトありますね。でも、標準装備の機能が少なすぎる気がする。ネットだけなら別にいいけど、いろいろ追加してくと、Winの方が高くつくんじゃないかなぁ。その分、Winの方がカスタマイズの自由度が高いし、ハードウェア面でもPC自作ができる訳だけど。
Mac、ソフト少ない少ないと言われてますけど、僕が知る限りでは、フリーソフトなんか量も種類も結構あるし、フリーのくせに質が高いと勝手に思ってます。OnyXとMac Journalは愛用品。
うーん。Winの利点って、何? Macの利点も、よく判らないけど。
そうそう。Macのウリと言えば、「ウィルスに感染しない」ってのもありますが、そりゃ「日本のMacユーザーなんて4%だ」なんて話もあるくらい、ユーザーが少ないから、ウィルスをバラ撒いたところで、影響なんて少ないから狙われないってだけなんですよね。
ちなみに僕は、for Macのノートンを入れた事がありますが、返ってカーネルクラッシュ的な不具合が発生して、慌てて引っこ抜いた事があります。その後、ウィルス対策ソフトは全く入れてませんが、今日も僕のMacは元気です。
HDD以外は。
2008.01.17 ▲
えー、いっこ前の記事でベンヤミンの『複製技術時代の芸術』に触れた訳ですが。僕の専攻が、丁度この時期のちょっと後くらい、シュルレアリスム真っ盛りなんで、ついつい脱線しすぎて書きすぎたので、分割してみました。
ところで。複製技術の興隆と共に美術に起きた変化は、僕が思うに、美術の内面化。
それまでの美術は、具象的なわけですよ。そりゃ。具体的で判りやすくなければならない。宗教画なら見る人は無学かもしれないし、知識人相手の絵画もある決まり事に則って、何が主題なのか、誰が描かれているのか、とかが見てすぐ判らなければならない。
ところが、具象的なものなら、写真の方が圧倒的に早いし正確。肖像画なんて、描く意味の根っこからなくなる。そこで、美術に求められる価値が変容していって、見た目の素直な美しさじゃなく、造り手の思想や意識が価値を決めるようになっていったんじゃないかな、と。
ダダで複製技術を利用して、複製技術自体と、既存の美学を支えてきた即物的なもの(美術ってものにはカネがかかりますからね)を嘲弄し、シュルレアリスムで既存の美学の批判と(僕にはシュルレアリスムが社会に対して破壊力を持つと思えない)、現実を超えた強度の高い現実の探求、その後は……ごめんなさい、現代アートは判んない。でも、人間性を追求したものや社会批判が多いと思う。
ダダだのシュルレアリスムの前から、人間の本質を表現しようという姿勢はロダン見えるし、拝金主義・即物的なものへの批判ならヴィリエ・ド・リラダンの『イヴ』で滔々と述べられてますが、うーん、19世紀末、あの時代はサロンの時代、どっちも最後まで売れなかった。
ダダはよく判りませんが(だって売り物にならないモノを造るのが目的なんだもん)、シュルレアリスムはリアルタイムで結構売れてます。分類の難しいピカソもデュシャンも生きてるうちに売れてます。
ピカソが評価されるのは、2次元に3次元を表現しようとした事や、大人の手と頭では絶対に無理である子供のような無邪気な表現をしてみせた事など、既成の価値を破壊しようとしたからだ、という話を2年以上前に美術史の教官から聞かされた覚えがあります。
肖像画もその点で生きながらえた。造り手が対象をどのように捉えてるか、という関係性を表現する手段としての肖像画で、真実似ている事はあまり関係なく、モデルの人間的特徴を捉えていればおっけー、という。
何を「美術」と呼ぶべきか、その価値は、その意味は、という認識が混乱していた時代だからこそ、ピカソやデュシャンといった破壊者が評価されたんだろうな。逆に、サロンの時代、美術は斯く在るべしという認識がしっかりしていた時代だからこそ、新しい表現をしたロダンも、作品に痛烈な社会批判を盛り込んだリラダンも、ごく一部では評価されながら、結局広く受け入れられなかった。
しかしね。思う。売れていいのか、シュルレアリスト。
だって、シュルレアリストは狂気を用いて、現実を上回る高次の現実を追求したんですよ。「狂気を用いて」(強調)。しかも、現実以上の世界を求めた作業の結果を用いて、現実世界での富を得ていいのか。
あ、いいのか、別にブルジョワ批判、してねーし。
しかし僕が思うに。
芸術が内面化するのなら、作品が売れてはいけない。
作品の複製は好きに出回れば良い、複製を前提としない芸術はもはや存在しないのだから。書物と同じだ、多くの人に知られるように、むしろ複製は推奨されるべきだろう。
譲渡するのもかまわない、芸術家は自らの理解者に対してでなければ、わざわざ作品を譲ったりはしないだろうから。
しかし、芸術家は作品を売ってはいけない。なぜなら、芸術作品が金銭と交換できる程度になった時点(移動不可能に近いフレスコ画から、気軽に持ち運べるカンヴァスに移行した時点)で、作品の買い手は、常に造り手の理解者とは限らない。とすると、その際に発生する金銭のやり取りは、芸術家とその作品への賛辞とは限らない。自らの思想を切り売りするなんてものじゃない、ただ自らの思想とそれを表現した作品を、金銭という妄想だけのモノに貶める事になる、しかも複製不可能・交換不可能なはずの真作を。
だから、その作品が自らの主張や思想であるとする限り、金銭を媒介してはならない。
なんて。時代遅れかな。
パトロンのある時代は、画家は単なる職人に過ぎなかったし、パトロンなき時代になってやっと自由に表現できると思いきや、意義が作者を殺し得るという自縄自縛の罠。
まぁそんな、これは自分の思想そのものだから作品を売らないなんて芸術家、お目にかかれませんがね。
……「パトロンなき時代」は、実は「思想だけで矜持なき時代」か?
ところで。複製技術の興隆と共に美術に起きた変化は、僕が思うに、美術の内面化。
それまでの美術は、具象的なわけですよ。そりゃ。具体的で判りやすくなければならない。宗教画なら見る人は無学かもしれないし、知識人相手の絵画もある決まり事に則って、何が主題なのか、誰が描かれているのか、とかが見てすぐ判らなければならない。
ところが、具象的なものなら、写真の方が圧倒的に早いし正確。肖像画なんて、描く意味の根っこからなくなる。そこで、美術に求められる価値が変容していって、見た目の素直な美しさじゃなく、造り手の思想や意識が価値を決めるようになっていったんじゃないかな、と。
ダダで複製技術を利用して、複製技術自体と、既存の美学を支えてきた即物的なもの(美術ってものにはカネがかかりますからね)を嘲弄し、シュルレアリスムで既存の美学の批判と(僕にはシュルレアリスムが社会に対して破壊力を持つと思えない)、現実を超えた強度の高い現実の探求、その後は……ごめんなさい、現代アートは判んない。でも、人間性を追求したものや社会批判が多いと思う。
ダダだのシュルレアリスムの前から、人間の本質を表現しようという姿勢はロダン見えるし、拝金主義・即物的なものへの批判ならヴィリエ・ド・リラダンの『イヴ』で滔々と述べられてますが、うーん、19世紀末、あの時代はサロンの時代、どっちも最後まで売れなかった。
ダダはよく判りませんが(だって売り物にならないモノを造るのが目的なんだもん)、シュルレアリスムはリアルタイムで結構売れてます。分類の難しいピカソもデュシャンも生きてるうちに売れてます。
ピカソが評価されるのは、2次元に3次元を表現しようとした事や、大人の手と頭では絶対に無理である子供のような無邪気な表現をしてみせた事など、既成の価値を破壊しようとしたからだ、という話を2年以上前に美術史の教官から聞かされた覚えがあります。
肖像画もその点で生きながらえた。造り手が対象をどのように捉えてるか、という関係性を表現する手段としての肖像画で、真実似ている事はあまり関係なく、モデルの人間的特徴を捉えていればおっけー、という。
何を「美術」と呼ぶべきか、その価値は、その意味は、という認識が混乱していた時代だからこそ、ピカソやデュシャンといった破壊者が評価されたんだろうな。逆に、サロンの時代、美術は斯く在るべしという認識がしっかりしていた時代だからこそ、新しい表現をしたロダンも、作品に痛烈な社会批判を盛り込んだリラダンも、ごく一部では評価されながら、結局広く受け入れられなかった。
しかしね。思う。売れていいのか、シュルレアリスト。
だって、シュルレアリストは狂気を用いて、現実を上回る高次の現実を追求したんですよ。「狂気を用いて」(強調)。しかも、現実以上の世界を求めた作業の結果を用いて、現実世界での富を得ていいのか。
あ、いいのか、別にブルジョワ批判、してねーし。
しかし僕が思うに。
芸術が内面化するのなら、作品が売れてはいけない。
作品の複製は好きに出回れば良い、複製を前提としない芸術はもはや存在しないのだから。書物と同じだ、多くの人に知られるように、むしろ複製は推奨されるべきだろう。
譲渡するのもかまわない、芸術家は自らの理解者に対してでなければ、わざわざ作品を譲ったりはしないだろうから。
しかし、芸術家は作品を売ってはいけない。なぜなら、芸術作品が金銭と交換できる程度になった時点(移動不可能に近いフレスコ画から、気軽に持ち運べるカンヴァスに移行した時点)で、作品の買い手は、常に造り手の理解者とは限らない。とすると、その際に発生する金銭のやり取りは、芸術家とその作品への賛辞とは限らない。自らの思想を切り売りするなんてものじゃない、ただ自らの思想とそれを表現した作品を、金銭という妄想だけのモノに貶める事になる、しかも複製不可能・交換不可能なはずの真作を。
だから、その作品が自らの主張や思想であるとする限り、金銭を媒介してはならない。
なんて。時代遅れかな。
パトロンのある時代は、画家は単なる職人に過ぎなかったし、パトロンなき時代になってやっと自由に表現できると思いきや、意義が作者を殺し得るという自縄自縛の罠。
まぁそんな、これは自分の思想そのものだから作品を売らないなんて芸術家、お目にかかれませんがね。
……「パトロンなき時代」は、実は「思想だけで矜持なき時代」か?
2008.01.17 ▲
現在、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を再読中。
そして……ごめんなさい、ベンヤミン様。冗談抜きにごめんなさい。
相当な勢いで勘違いしてました。本当に僕は馬鹿だ。
うーん。僕の勘違いは僕の能力不足だと言ってしまえばそれまでなのだけれど。
だいぶ記憶が薄れているけれど、確か何かのレポートのために『複製技術時代の芸術』を読んだのだったと思う。僕は古い芸術の在り方を肯定する立場だったから、それに沿う文章を(というより、おそらく「それに沿う文章だけを」)、読み取ろうとしてしまったんではなかろうか。その時に書いたものを見ると、僕の主観が入っているというより、もはや僕の意見を述べるためにベンヤミンを誤用・援用してるという感じなんだもん。
一度きりの存在、一回性、今・此処にあるという現実とそれに基づく価値、そういったものをアウラと呼び、複製技術によってそのアウラが凋落してゆく姿をベンヤミンは描いた(ベンヤミンを読んでいると、どうも「論じる」というより「描く」の方が適切に思われて。)訳で、確かにそこまでは読み取れているんだが、僕はそれに対するベンヤミンの態度を読み違えているんだ。
えっらい乱暴に言うと、僕は、「アウラの凋落=美術の価値の凋落」と捉えた。そして美術商の息子であるヴァルター・ベンヤミンが、美術の意味が変容していくのを嘆かないはずが無いって思ってしまった。……いや、僕がそれを受け入れられなかったから、そう考え、そういう部分だけ読み取ったんだと思う。
だけどそうじゃない、ベンヤミンが述べたかったのは、そういうのじゃなくて、「アウラの凋落=既存の美術の意味の凋落=新たな美術・新たな意味の発生」な訳だ。
特にダダイスムにその「新たな美術・新たな意味」を見ていたようで、その辺に結構触れている。ダダの作家はみんなシュルレアリスムに移行していったにも関わらず、彼が注目するのは、ダダ。工業製品のゴミを寄せ集めて「作品」と呼ぶ、作品に最初から「複製」の烙印を押す、という無茶をするのは、確かにダダの特徴。シュルレアリスムは、頭はトんでるけど、ちゃんとタブローを造っちゃうんですよね。
ダダは作品の内側に素材として社会を取り込んだ訳だけど、シュルレアリスムは、自己の内側に閉じこもったに近い。自らの現実と狂気のみを探求したんだから。(そこんとこ考えると、ベルメールなんかよりマグリットの方がよほどシュルレアリスムの異端だと思う。マグリットはどこか社会的じゃないか?)
うーん。なんと言うか、複製技術とダダは、既存の美術のアウラを破壊してみせた訳ですよ。その点に於いて、ベンヤミンはダダを例に引いたんだと思う。しかし、シュルレアリスムが破壊しようとしたのは、現実世界のまとうアウラなんじゃないかな。(ただ、破壊した先に本当により強い現実があるかどうかは疑問で、僕は作者個々人の世界があっただけなんじゃないかと思う)
そうした背景を踏まえて、もう一度シュヴィッタースのメルツあるいはアンナ・ブルーメがもう一度見たい!(クルト・シュヴィッタース[Kurt Schwitters]は、最初からダダイストじゃないくせに、最後までダダっ子だった人。)
実はその「美術」を支える社会層の変容も加えた広い視野で、認識の変容という複雑な問題を分析しているんだけれど、それまで考えだすともう厄介で厄介で。僕にはもう無理。
社会学は興味あるけど、共産主義は無理です。判んない。知識人層やブルジョワによって形成された文化あたりまでが限界。僕、貧民だけど、20世紀初頭の貧民程貧しくないもん。むしろ四大行った時点でブルジョワだよね。
さて。今回、確か「ベンヤミンを誤解してたよー」ってだけの話だったはずなのに、無駄に書きまくって、しかも脱線しまくってまとまってないです。相変わらずで、ごめんなさい。
とにかく、幅広い知識と意識と認識を持ち、且つ哲学者というより文学者な文章を書くヴァルター・ベンヤミンに、改めて最敬礼。
『複製技術時代の芸術』を再読し終えたら、ついでに『「複製技術時代の芸術」精読』を読んでから、もう一度、エッセイを書きたい。
そして……ごめんなさい、ベンヤミン様。冗談抜きにごめんなさい。
相当な勢いで勘違いしてました。本当に僕は馬鹿だ。
うーん。僕の勘違いは僕の能力不足だと言ってしまえばそれまでなのだけれど。
だいぶ記憶が薄れているけれど、確か何かのレポートのために『複製技術時代の芸術』を読んだのだったと思う。僕は古い芸術の在り方を肯定する立場だったから、それに沿う文章を(というより、おそらく「それに沿う文章だけを」)、読み取ろうとしてしまったんではなかろうか。その時に書いたものを見ると、僕の主観が入っているというより、もはや僕の意見を述べるためにベンヤミンを誤用・援用してるという感じなんだもん。
一度きりの存在、一回性、今・此処にあるという現実とそれに基づく価値、そういったものをアウラと呼び、複製技術によってそのアウラが凋落してゆく姿をベンヤミンは描いた(ベンヤミンを読んでいると、どうも「論じる」というより「描く」の方が適切に思われて。)訳で、確かにそこまでは読み取れているんだが、僕はそれに対するベンヤミンの態度を読み違えているんだ。
えっらい乱暴に言うと、僕は、「アウラの凋落=美術の価値の凋落」と捉えた。そして美術商の息子であるヴァルター・ベンヤミンが、美術の意味が変容していくのを嘆かないはずが無いって思ってしまった。……いや、僕がそれを受け入れられなかったから、そう考え、そういう部分だけ読み取ったんだと思う。
だけどそうじゃない、ベンヤミンが述べたかったのは、そういうのじゃなくて、「アウラの凋落=既存の美術の意味の凋落=新たな美術・新たな意味の発生」な訳だ。
特にダダイスムにその「新たな美術・新たな意味」を見ていたようで、その辺に結構触れている。ダダの作家はみんなシュルレアリスムに移行していったにも関わらず、彼が注目するのは、ダダ。工業製品のゴミを寄せ集めて「作品」と呼ぶ、作品に最初から「複製」の烙印を押す、という無茶をするのは、確かにダダの特徴。シュルレアリスムは、頭はトんでるけど、ちゃんとタブローを造っちゃうんですよね。
ダダは作品の内側に素材として社会を取り込んだ訳だけど、シュルレアリスムは、自己の内側に閉じこもったに近い。自らの現実と狂気のみを探求したんだから。(そこんとこ考えると、ベルメールなんかよりマグリットの方がよほどシュルレアリスムの異端だと思う。マグリットはどこか社会的じゃないか?)
うーん。なんと言うか、複製技術とダダは、既存の美術のアウラを破壊してみせた訳ですよ。その点に於いて、ベンヤミンはダダを例に引いたんだと思う。しかし、シュルレアリスムが破壊しようとしたのは、現実世界のまとうアウラなんじゃないかな。(ただ、破壊した先に本当により強い現実があるかどうかは疑問で、僕は作者個々人の世界があっただけなんじゃないかと思う)
そうした背景を踏まえて、もう一度シュヴィッタースのメルツあるいはアンナ・ブルーメがもう一度見たい!(クルト・シュヴィッタース[Kurt Schwitters]は、最初からダダイストじゃないくせに、最後までダダっ子だった人。)
実はその「美術」を支える社会層の変容も加えた広い視野で、認識の変容という複雑な問題を分析しているんだけれど、それまで考えだすともう厄介で厄介で。僕にはもう無理。
社会学は興味あるけど、共産主義は無理です。判んない。知識人層やブルジョワによって形成された文化あたりまでが限界。僕、貧民だけど、20世紀初頭の貧民程貧しくないもん。むしろ四大行った時点でブルジョワだよね。
さて。今回、確か「ベンヤミンを誤解してたよー」ってだけの話だったはずなのに、無駄に書きまくって、しかも脱線しまくってまとまってないです。相変わらずで、ごめんなさい。
とにかく、幅広い知識と意識と認識を持ち、且つ哲学者というより文学者な文章を書くヴァルター・ベンヤミンに、改めて最敬礼。
『複製技術時代の芸術』を再読し終えたら、ついでに『「複製技術時代の芸術」精読』を読んでから、もう一度、エッセイを書きたい。
2008.01.17 ▲
再び、他者の考えと自分の考えの相違点を、日常の出来事から考えてみる。
もう去年の話になってしまうけれど、バイト先の先輩と、寒空の下、煙草を吸いながら心に移り行く由無し事を2時間も語り合った。
しまいには訳が判らなくなったけど。
莉子さんは僕を論理的と言ってくれたような記憶があるけど、男性と話すと、やっぱ僕って論理的じゃねーな、という事が頻繁にある。どんなに否定したって、どこか女性的なんですよ。
君がそう思う根拠は?その証明はどういう道筋? と、いうような事を巧く説明できない事が多い。
トドメに今回話してた相手は、工学部のマスター。理論で勝とうなんて無理だっての。
人工知能の話をしてた。
マスターが最初に研究の事話してて、ほんとは別の事がやりたいんだ、人工知能について研究したい、って言い出した。
「人間の感情とか思考とかって、それまでの記憶の蓄積に依るんだから、人工知能なんて、実現可能じゃないのか?」
僕はその問いに関しては、肯定。人間のコピーは、造れると思う。
「では、魂とは何か?」
僕は、天国に行く権利だと答えた。(言い回しが我ながら莫迦らしい)
うーん、別に信仰心だとかそういう事を言ってるんじゃなくて、何かを畏れる心、罪とか罰とか、病とか死とか、日本的なものなら恥とか周囲の目だとか、そういう自分の力の及ばない何かを畏れる心、それが魂じゃないかと思う。恐怖するんじゃなくて、畏れる。
けれど、「人間の正確なコピーが造れるなら、その何かを畏れる心も造れるんじゃねーの?」という問いに、あえなく撃沈。
後から考えれば、いくらでもコピーが造れる、という安堵感があれば死を畏れなくなる。コピーする際に書き換えが可能なら、罪や罰も畏れなくなる。実物かどうか怪しい存在になってしまえば(ネットの世界はこれと似た匿名性を持つと思う)、周囲の目すら畏れなくなる。と、気づくんだけど。
人間の話もしてた。
僕はね。ほんとは人間の身体って、大嫌い。抵抗無く触れるのって、多分、日常的に慣れきった手とか、生命を感じさせない髪だけだ。いや、そりゃ自分の身体は触れるけどね、でも時々吐き気がするのは仕方が無い。
そこんとこ、マスターと意気投合。
そのマスター、恋人は居るのに、裸体はあまり抱きしめたくないってさ。服を着てれば大丈夫、とか。それって、その恋人にとっては悲しいんじゃないかな。とは思うけど、共感してしまう。
人間って気持ち悪いんだよ。
僕はそれで、奇麗な人形だとか彫刻だとかを眺める事に走ったけれど、マスターは人工知能に行った訳。
総て電流になってしまえば、肉体なんか脱ぎ捨てる事ができるって。
僕ね、そこまで物質が嫌いではないから、そこは共感し難かった。全く共感できない訳じゃない、でも、磨き上げられた石の滑らかな表面とか、カンバスの絵の具の隆起とか、大好きな人形の唇や腹部とか、触れていたい、あるいは触れてみたいものがたくさんある。
僕は人工物が好き。非生命的なものが好き。でも、物質が嫌いじゃない。だから、物質すら意味を無くす電気にまで還元されたくない。
味覚と嗅覚は現在でも既に死に絶えてるよーな僕だから(煙草飲みは味覚も嗅覚もイカレるんだよ)、その二つはどーでもいいけど。(聴覚も半分死にかけてるけど)
触れられないんだよ。見えないんだよ。聞こえないんだよ。
それは、あまりにも、寂しい。
そしてもう一つ。ベンヤミンだ。コピーは、本物が持っているはずの何か、を失う。今・此処に、存在する、という現実を失う。
特に、物質から電流への還元、などという次元が違ってしまうコピーじゃ、失うものが大きすぎるんじゃないかな。
さて、本当に問題にしたい部分に差し掛かったところで、すみません、これに関する世迷い言はまた後日。マジごめんなさい。
もう去年の話になってしまうけれど、バイト先の先輩と、寒空の下、煙草を吸いながら心に移り行く由無し事を2時間も語り合った。
しまいには訳が判らなくなったけど。
莉子さんは僕を論理的と言ってくれたような記憶があるけど、男性と話すと、やっぱ僕って論理的じゃねーな、という事が頻繁にある。どんなに否定したって、どこか女性的なんですよ。
君がそう思う根拠は?その証明はどういう道筋? と、いうような事を巧く説明できない事が多い。
トドメに今回話してた相手は、工学部のマスター。理論で勝とうなんて無理だっての。
人工知能の話をしてた。
マスターが最初に研究の事話してて、ほんとは別の事がやりたいんだ、人工知能について研究したい、って言い出した。
「人間の感情とか思考とかって、それまでの記憶の蓄積に依るんだから、人工知能なんて、実現可能じゃないのか?」
僕はその問いに関しては、肯定。人間のコピーは、造れると思う。
「では、魂とは何か?」
僕は、天国に行く権利だと答えた。(言い回しが我ながら莫迦らしい)
うーん、別に信仰心だとかそういう事を言ってるんじゃなくて、何かを畏れる心、罪とか罰とか、病とか死とか、日本的なものなら恥とか周囲の目だとか、そういう自分の力の及ばない何かを畏れる心、それが魂じゃないかと思う。恐怖するんじゃなくて、畏れる。
けれど、「人間の正確なコピーが造れるなら、その何かを畏れる心も造れるんじゃねーの?」という問いに、あえなく撃沈。
後から考えれば、いくらでもコピーが造れる、という安堵感があれば死を畏れなくなる。コピーする際に書き換えが可能なら、罪や罰も畏れなくなる。実物かどうか怪しい存在になってしまえば(ネットの世界はこれと似た匿名性を持つと思う)、周囲の目すら畏れなくなる。と、気づくんだけど。
人間の話もしてた。
僕はね。ほんとは人間の身体って、大嫌い。抵抗無く触れるのって、多分、日常的に慣れきった手とか、生命を感じさせない髪だけだ。いや、そりゃ自分の身体は触れるけどね、でも時々吐き気がするのは仕方が無い。
そこんとこ、マスターと意気投合。
そのマスター、恋人は居るのに、裸体はあまり抱きしめたくないってさ。服を着てれば大丈夫、とか。それって、その恋人にとっては悲しいんじゃないかな。とは思うけど、共感してしまう。
人間って気持ち悪いんだよ。
僕はそれで、奇麗な人形だとか彫刻だとかを眺める事に走ったけれど、マスターは人工知能に行った訳。
総て電流になってしまえば、肉体なんか脱ぎ捨てる事ができるって。
僕ね、そこまで物質が嫌いではないから、そこは共感し難かった。全く共感できない訳じゃない、でも、磨き上げられた石の滑らかな表面とか、カンバスの絵の具の隆起とか、大好きな人形の唇や腹部とか、触れていたい、あるいは触れてみたいものがたくさんある。
僕は人工物が好き。非生命的なものが好き。でも、物質が嫌いじゃない。だから、物質すら意味を無くす電気にまで還元されたくない。
味覚と嗅覚は現在でも既に死に絶えてるよーな僕だから(煙草飲みは味覚も嗅覚もイカレるんだよ)、その二つはどーでもいいけど。(聴覚も半分死にかけてるけど)
触れられないんだよ。見えないんだよ。聞こえないんだよ。
それは、あまりにも、寂しい。
そしてもう一つ。ベンヤミンだ。コピーは、本物が持っているはずの何か、を失う。今・此処に、存在する、という現実を失う。
特に、物質から電流への還元、などという次元が違ってしまうコピーじゃ、失うものが大きすぎるんじゃないかな。
さて、本当に問題にしたい部分に差し掛かったところで、すみません、これに関する世迷い言はまた後日。マジごめんなさい。
2008.01.04 ▲
DisturbedのShout2000という曲が以前から気になっていて。
その、「2000」が。
Shoutという曲にすれば良いのに、何故2000が付くんだ?
いや、確かにDisturbedのデヴューは2000年で、その時のアルバムにこの曲が入ってたからだったとは思うけど。日本でも、無駄に2000がつく曲名の歌がいっぱい出た記憶が薄らありますしね。もう8年も前で、記憶曖昧ですが。
でも、デヴュー前の曲のセルフ・カバーとかじゃなくて、別のバンドの曲のカバーのように思えて。曲の作りが、何となくDisturbedの他の曲とは違う感じなんですよ。僕はどうせ素人だから、巧くいえないけど、何か違う。
で、調べてみたら、やっぱ原曲は別のバンドでした。
TearsForFears。イギリスのバンドです。それも、80年代ですよ。僕ら産まれてねーですよ。知ってる訳がないわ。
それでもまぁ、聞き比べてみました。すると、けっこう面白い。
こちらでは「良心的なカバー」と仰っておりますが、僕には良心的でないカバーが判らないんですけどね。でも、まぁ歌詞もだいたい原曲に則って、アレンジも控えめっちゃあ控えめですが、けれども80'ロックのnu-metal版ですよー??
うーん、80'にこんな曲を作ってたTears for Fearsもすごいと思います。ほんの少しいじれば、現代でいくらでも通用しそうです。そう思うのは僕だけかもしれないけど。
ついでに、イギリス英語とアメリカ英語の発音の違いも薄ら感じ取れます。イギリスってやっぱり発音ちゃんとしてんだなー、歌なのに。
ほんと、面白いわ。
興味があったら以下のリンクよりどうぞ。
Tears for Fears / Shout
Disturbed / Shout2000
その、「2000」が。
Shoutという曲にすれば良いのに、何故2000が付くんだ?
いや、確かにDisturbedのデヴューは2000年で、その時のアルバムにこの曲が入ってたからだったとは思うけど。日本でも、無駄に2000がつく曲名の歌がいっぱい出た記憶が薄らありますしね。もう8年も前で、記憶曖昧ですが。
でも、デヴュー前の曲のセルフ・カバーとかじゃなくて、別のバンドの曲のカバーのように思えて。曲の作りが、何となくDisturbedの他の曲とは違う感じなんですよ。僕はどうせ素人だから、巧くいえないけど、何か違う。
で、調べてみたら、やっぱ原曲は別のバンドでした。
TearsForFears。イギリスのバンドです。それも、80年代ですよ。僕ら産まれてねーですよ。知ってる訳がないわ。
それでもまぁ、聞き比べてみました。すると、けっこう面白い。
こちらでは「良心的なカバー」と仰っておりますが、僕には良心的でないカバーが判らないんですけどね。でも、まぁ歌詞もだいたい原曲に則って、アレンジも控えめっちゃあ控えめですが、けれども80'ロックのnu-metal版ですよー??
うーん、80'にこんな曲を作ってたTears for Fearsもすごいと思います。ほんの少しいじれば、現代でいくらでも通用しそうです。そう思うのは僕だけかもしれないけど。
ついでに、イギリス英語とアメリカ英語の発音の違いも薄ら感じ取れます。イギリスってやっぱり発音ちゃんとしてんだなー、歌なのに。
ほんと、面白いわ。
興味があったら以下のリンクよりどうぞ。
Tears for Fears / Shout
Disturbed / Shout2000
2008.01.02 ▲
懐かしい方からメールをいただきました。
その方はどうやら、最近は創作活動をなさってないご様子。一抹の寂しさを覚えるとともに、別に僕も創作活動をしてないぞ、と思い当たる。
少なくとも、高校時代ほどには集中してのめりこんでいない。造り込んでない。どいつもこいつも中途半端なモノばかり量産してるだけで。
大学へ来て好きな学問を好き勝手にできるようになり、あまりにも自由な有様のためか、僕はそれはそれは移り気で飽きっぽくなったと思う。自分の作品に、愛着をあまり感じない。
いや、もはや作品じゃない。書いてるんじゃない。ただ吐き散らかしてるだけ、という感じだ。
何かを考えていると書かずに居られない、書かないと考えがまとまらない、でもそれを作品としようとしていない。だから物語は書かないし、エッセイもろくでない。
それでも何かを書き続けているのは、何かを諦めきれていないんだと思う。
その「何か」とは? おそらく、莉子さんのような、「自分の作品を広く知ってもらいたい」という欲求じゃない。
僕は、大嫌いな現代へ打撃を加えたい。異端の立場から正統を批判したい。現代の方向性も正統の在り方も変える程の力など、僕には無いと判りきった上で、ただ、権威を蔑み嘲りたい、それだけ。ベルメールの、ナチへの子供じみた反抗に、とても共感する。
しかし、それだけの事をするには、蓄積が必要だと思う。
澁澤龍彦は、自分は天才ではないから、職人のようにひたすら造りこんでいくしかない、というような事を書いていた記憶があるが、僕はこの考えが非常に好きで。
僕も天才じゃない、造り込まなければならない。それには、ある程度デッサンの練習を積んでもいいんじゃないかな。
と、自己正当化しても意味はないんだけど。真面目に生きなさい、俺。
相変わらずの脱線ぶりで、いったい最初は何を書こうとしていたのか、忘れてしまいました。多分、「今は吐き散らかしてるだけだけど、いつかちゃんとしたモノ書きますよー」的な事を言いたかったんだと思う。ははは。
とりあえず、明日は昔の部誌を引っ張りだして、メールを下さった御仁の作品を読んでみようかな。
その方はどうやら、最近は創作活動をなさってないご様子。一抹の寂しさを覚えるとともに、別に僕も創作活動をしてないぞ、と思い当たる。
少なくとも、高校時代ほどには集中してのめりこんでいない。造り込んでない。どいつもこいつも中途半端なモノばかり量産してるだけで。
大学へ来て好きな学問を好き勝手にできるようになり、あまりにも自由な有様のためか、僕はそれはそれは移り気で飽きっぽくなったと思う。自分の作品に、愛着をあまり感じない。
いや、もはや作品じゃない。書いてるんじゃない。ただ吐き散らかしてるだけ、という感じだ。
何かを考えていると書かずに居られない、書かないと考えがまとまらない、でもそれを作品としようとしていない。だから物語は書かないし、エッセイもろくでない。
それでも何かを書き続けているのは、何かを諦めきれていないんだと思う。
その「何か」とは? おそらく、莉子さんのような、「自分の作品を広く知ってもらいたい」という欲求じゃない。
僕は、大嫌いな現代へ打撃を加えたい。異端の立場から正統を批判したい。現代の方向性も正統の在り方も変える程の力など、僕には無いと判りきった上で、ただ、権威を蔑み嘲りたい、それだけ。ベルメールの、ナチへの子供じみた反抗に、とても共感する。
しかし、それだけの事をするには、蓄積が必要だと思う。
澁澤龍彦は、自分は天才ではないから、職人のようにひたすら造りこんでいくしかない、というような事を書いていた記憶があるが、僕はこの考えが非常に好きで。
僕も天才じゃない、造り込まなければならない。それには、ある程度デッサンの練習を積んでもいいんじゃないかな。
と、自己正当化しても意味はないんだけど。真面目に生きなさい、俺。
相変わらずの脱線ぶりで、いったい最初は何を書こうとしていたのか、忘れてしまいました。多分、「今は吐き散らかしてるだけだけど、いつかちゃんとしたモノ書きますよー」的な事を言いたかったんだと思う。ははは。
とりあえず、明日は昔の部誌を引っ張りだして、メールを下さった御仁の作品を読んでみようかな。
2008.01.02 ▲
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人間と感情的な部分で深く関わりたくなくて、ある人に悲しい思いをさせてまして。
僕としては、こういう風に生きてる時の方がすごく楽です。意俊也。65DaysOfStatic先程のコメントは私信についてのものです。桜居65DaysOfStaticもし見当違いなことを言っていたらごめん。
君は書くべきだ。書かずにはいられないのなら書くべきだ。その衝動に正直になるべきだ。誰のためでもなく自分のために。そのと桜居