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莉子さんとこの間、お茶をし、お酒もいただき、たっぷりと話をしたのだが。
ふと彼女の作品と僕の書くものとの違いが気になって、それについてもちょっとだけ話した。ちなみに僕の書くものに関しては、高校の頃の『ゼフィド』以降の分析になるけど。
極端な話、莉子さんと僕との違いは、日本家屋と西洋建築の違いに似てると思った。
莉子さんの書くものは、いつもどこか明るい日差しが差し込んでいるような明るさと透明さ、そして風通しの良さを感じる。光がさまざまな色を見せるように、多彩な情景が浮かぶ。僕にとっては、場合によっては感傷的過ぎるようにさえ映る。
それに対して、僕の精神構造はどこか閉塞してる。閉じている。空気は動かず流れず滞留し、淀んで。光は、小さな窓から差す、あまりにもわずかな……。暗く閉じて誰もいない、そこで何かに憑かれたようなロジックを組み上げては崩す、という行為を繰り返すような。
霧雨に濡れる街だとか、むせ返るような青い森だとか、どんなに描こうとしたって、所詮は狭い狭い窓からのぞき見た、わずかな世界に過ぎない。人間とは何か、という事も知らないまま造り上げた人形しか描けない。総ては、石造りの書斎から一歩も出ずに、想像をめぐらせた偽物にすぎない。
他の友人を紹介させていただくと。勝手に失礼します、瑞月様。
瑞月様の作品は、僕と同じで閉じてる事があるように思う。っていうか、僕が読んだ限りだと、だいたいが閉じてる。閉じているけれど、ただ、世界が閉じてるというかなんと言うか……箱庭の世界のような印象がある。それも精緻に造り込まれた箱庭で、造営者の愛情がこもっているのがよくわかる。
ただし、物語としてはどこか開放されている(解放じゃない)、限りが無い。あまりに精巧に出来た箱庭だから、本当の世界のように生命を感じさせて、終わりが見えない。ずっと何処かへ広がっていく。
人物像に関しては、莉子さんは一人一人の性格とか性質とかを細かく造形して、その人物への愛情を感じる。人物像が暴走して物語の筋が破綻したら、大変じゃないのかな、と思う事があるくらい、僕には個性的に映る。
僕が書くのは、物語の進行上、与えられた役割を果たすだけの人形で、個性というものがない。冗談抜きに、名前の必要が無い。人数の問題で名前を付けないと書き分けが出来なくなる、という事はあるけど、本質的に名前は要らない。
瑞月さんの造る箱庭の世界は、生命と水のイメージ。瑞々しくて、調和に満ちて、光が降り注ぐような。ただ、時々どこかがほころびたら全体が破綻してしまうんじゃないかと、怖くなる。
僕の描く世界は、ただの劇場。それもたぶん、乱雑な。その場でだけ成立すればいい論理に則ってるから、ほころびが出来ようと、幕が上がり、下りるまでの僅かな間だけ、持続すれば良い。ただし、その間だけは、厳粛にそれが守られる事を願う。(あくまで願うだけで、実現できないのが技量不足)
人間性が優先するか、ロジックが優先するか、という根本的な構造の違い、なのかなぁ……。
まぁ……逆に、本物を知らないからこそ書ける幻想もある、と信じたい。永遠を望まないからこそ構築できるロジックがあると信じたい。
だけど、幻想は現実を超越していくけれど、その足は確かに現実に根付いてるはずで。
ロジックも、本質的には、普遍と永続を志向するもののはずで。
僕って中途半端だな。
ふと彼女の作品と僕の書くものとの違いが気になって、それについてもちょっとだけ話した。ちなみに僕の書くものに関しては、高校の頃の『ゼフィド』以降の分析になるけど。
極端な話、莉子さんと僕との違いは、日本家屋と西洋建築の違いに似てると思った。
莉子さんの書くものは、いつもどこか明るい日差しが差し込んでいるような明るさと透明さ、そして風通しの良さを感じる。光がさまざまな色を見せるように、多彩な情景が浮かぶ。僕にとっては、場合によっては感傷的過ぎるようにさえ映る。
それに対して、僕の精神構造はどこか閉塞してる。閉じている。空気は動かず流れず滞留し、淀んで。光は、小さな窓から差す、あまりにもわずかな……。暗く閉じて誰もいない、そこで何かに憑かれたようなロジックを組み上げては崩す、という行為を繰り返すような。
霧雨に濡れる街だとか、むせ返るような青い森だとか、どんなに描こうとしたって、所詮は狭い狭い窓からのぞき見た、わずかな世界に過ぎない。人間とは何か、という事も知らないまま造り上げた人形しか描けない。総ては、石造りの書斎から一歩も出ずに、想像をめぐらせた偽物にすぎない。
他の友人を紹介させていただくと。勝手に失礼します、瑞月様。
瑞月様の作品は、僕と同じで閉じてる事があるように思う。っていうか、僕が読んだ限りだと、だいたいが閉じてる。閉じているけれど、ただ、世界が閉じてるというかなんと言うか……箱庭の世界のような印象がある。それも精緻に造り込まれた箱庭で、造営者の愛情がこもっているのがよくわかる。
ただし、物語としてはどこか開放されている(解放じゃない)、限りが無い。あまりに精巧に出来た箱庭だから、本当の世界のように生命を感じさせて、終わりが見えない。ずっと何処かへ広がっていく。
人物像に関しては、莉子さんは一人一人の性格とか性質とかを細かく造形して、その人物への愛情を感じる。人物像が暴走して物語の筋が破綻したら、大変じゃないのかな、と思う事があるくらい、僕には個性的に映る。
僕が書くのは、物語の進行上、与えられた役割を果たすだけの人形で、個性というものがない。冗談抜きに、名前の必要が無い。人数の問題で名前を付けないと書き分けが出来なくなる、という事はあるけど、本質的に名前は要らない。
瑞月さんの造る箱庭の世界は、生命と水のイメージ。瑞々しくて、調和に満ちて、光が降り注ぐような。ただ、時々どこかがほころびたら全体が破綻してしまうんじゃないかと、怖くなる。
僕の描く世界は、ただの劇場。それもたぶん、乱雑な。その場でだけ成立すればいい論理に則ってるから、ほころびが出来ようと、幕が上がり、下りるまでの僅かな間だけ、持続すれば良い。ただし、その間だけは、厳粛にそれが守られる事を願う。(あくまで願うだけで、実現できないのが技量不足)
人間性が優先するか、ロジックが優先するか、という根本的な構造の違い、なのかなぁ……。
まぁ……逆に、本物を知らないからこそ書ける幻想もある、と信じたい。永遠を望まないからこそ構築できるロジックがあると信じたい。
だけど、幻想は現実を超越していくけれど、その足は確かに現実に根付いてるはずで。
ロジックも、本質的には、普遍と永続を志向するもののはずで。
僕って中途半端だな。
2007.12.31 ▲
【Back Issues】
ファム・ファタル序論
ファム・ファタルという女性像を扱うにあたり、対となるもう一つの女性像、ファム・フラジールについて、簡単にまとめておこうと思う。
ファム・フラジールの「フラジール」は英語で言うfragile。脆く、壊れやすい女性、とでも言うべきか。いや、むしろ社会的に男性が守るべき女性、か。ファム・ファタルが娼婦的な、社会の枠組みの外に居る存在だというのならば、このファム・フラジールは妻や娘といった、正当に社会に組み込まれる存在。
原初の女イヴに対する聖処女マリア、が代表的だろう。
イヴは蛇に唆されてアダムを誘惑し、楽園を追われるという破滅へ導いたファム・ファタルであるのに対し、マリアはその原罪を拭いさるメサイアを産み、救済をもたらした。「娘」の座から速やかかつ清らかなまま「母」の座へ移行する、社会に正当に認められる存在、そして守られるべき存在。
ファム・ファタル、ファム・フラジール、一見対照的なこの二つの女性像は、実は根っこは同じ、男性の妄想や願望だ。ファム・ファタルにもファム・フラジールにも善悪はない。動機は女性にない。
男性は、家庭を守り、自らの社会的立場を保証し、そして救済と慰めをもたらす者を欲しながら、他のある女性を家庭を破壊し、社会的立場を崩し、破滅と罪業をもたらす者、しかし非常に魅惑的な誘惑者として欲望する。(破滅をもたらす者を欲望するというのは、不可思議な話だが、道を逸れる愉悦、禁忌を犯す興奮というものは確かに存在する。)
つまりは両者ともに男性の欲望の反射に過ぎない。彼女たちが魅力的なのは、彼らの欲望の投影そのものであるからだ。
極論、男性は自らの欲望を愛する、自らを愛するナルキッソス。
……といってしまうと、男性をステレオタイプ化することになるのだろうか。
ファム・ファタル序論
ファム・ファタルという女性像を扱うにあたり、対となるもう一つの女性像、ファム・フラジールについて、簡単にまとめておこうと思う。
ファム・フラジールの「フラジール」は英語で言うfragile。脆く、壊れやすい女性、とでも言うべきか。いや、むしろ社会的に男性が守るべき女性、か。ファム・ファタルが娼婦的な、社会の枠組みの外に居る存在だというのならば、このファム・フラジールは妻や娘といった、正当に社会に組み込まれる存在。
原初の女イヴに対する聖処女マリア、が代表的だろう。
イヴは蛇に唆されてアダムを誘惑し、楽園を追われるという破滅へ導いたファム・ファタルであるのに対し、マリアはその原罪を拭いさるメサイアを産み、救済をもたらした。「娘」の座から速やかかつ清らかなまま「母」の座へ移行する、社会に正当に認められる存在、そして守られるべき存在。
ファム・ファタル、ファム・フラジール、一見対照的なこの二つの女性像は、実は根っこは同じ、男性の妄想や願望だ。ファム・ファタルにもファム・フラジールにも善悪はない。動機は女性にない。
男性は、家庭を守り、自らの社会的立場を保証し、そして救済と慰めをもたらす者を欲しながら、他のある女性を家庭を破壊し、社会的立場を崩し、破滅と罪業をもたらす者、しかし非常に魅惑的な誘惑者として欲望する。(破滅をもたらす者を欲望するというのは、不可思議な話だが、道を逸れる愉悦、禁忌を犯す興奮というものは確かに存在する。)
つまりは両者ともに男性の欲望の反射に過ぎない。彼女たちが魅力的なのは、彼らの欲望の投影そのものであるからだ。
極論、男性は自らの欲望を愛する、自らを愛するナルキッソス。
……といってしまうと、男性をステレオタイプ化することになるのだろうか。
2007.12.27 ▲
ファム・ファタル。宿命の女、しかしその「宿命」という言葉には、破滅や死への宿命、という意味も含む。僕はあまりいい訳語を見つけられないものだから、よく「致命的な運命」と言う。
致命的なのだ。彼女を欲望する男性にとって。
その男性は、『カルメン』のホセのようにただ一人だったり、エミール・ゾラの『ナナ』のように彼女に関わるすべての男であったり、様々。だが、確実に、男を食らいつくし、破滅させ、地の底へといざなうのが、彼女ら。
そう、いざなう。
突き落とす、などという程、生易しくはない。そんなにすっきりさっぱりやっていただけたら、突き落とされた側だとて、はたと己の愚かしさに気づき、二度とそういった女に手出しはしない。
甘く優しく誘い、魅了し、男が彼女を離し難くなるのを待ち受ける。そして、だいたいのファム・ファタルたちは、一人にとどまらず他の男の影が必ずちらつき(カルメンもそう)、男はそれを感じ取ると嫉妬に燃えて、ますます彼女を離したがらなくなる。
彼女らが男にとって必要不可欠な存在、神的か魔的かに関わらず、特殊な存在となったところで、金銭も地位も名誉も奪い尽くして、総ての底へいざなっていく。
そして、彼女ら自身は、さっさと次の獲物へ取りかかり、似た行為を繰り返して行くが、まぁだいたいの物語で彼女ら自身も破滅していく。その最後はどうも、因果応報でなければ腑に落ちぬ、とでも言うかのように取ってつけた感のあるものも無きにしもあらずだが。
カルメンは死ななければならなかったと思うけれど、ルルの没落ぶりは納得いかないし(さっさと乗り換えろ)、ナナは、あのまま成功するのもアリだと僕は思う。
こういった女性像、これは女性像のステレオタイプ化であり、女性を型にはめて男性が勝手に恐れつつも欲望するという、はたから見れば「勝手にしろよ」と思わないでもない動機に起因する訳だが、そういった女性が登場する、あるいは主役を張る作品に魅力的なものが多いのも事実。また、そういう人為的に作られた自然でない女性像というものそのものが魅力的なのも、共感できる。
何故、こんな事を言い出したのか、というと、今後の記事のための予備知識として、あるいは僕の中で簡単にまとめてみたかったという程度の意味合い。
ドイツ語圏文化論に片足突っ込んだ時、シュルレアリスムに腰を据えた時に、この「致命的な運命の女」に取り組む事を余儀なくされた僕は、今度からちょっとずつ彼女らについて語りたい、できる事ならば、ファム・ファタルの構造について考えて行きたいと思う所存。
乞うご期待。
コレで卒論かけたらいいなーw
致命的なのだ。彼女を欲望する男性にとって。
その男性は、『カルメン』のホセのようにただ一人だったり、エミール・ゾラの『ナナ』のように彼女に関わるすべての男であったり、様々。だが、確実に、男を食らいつくし、破滅させ、地の底へといざなうのが、彼女ら。
そう、いざなう。
突き落とす、などという程、生易しくはない。そんなにすっきりさっぱりやっていただけたら、突き落とされた側だとて、はたと己の愚かしさに気づき、二度とそういった女に手出しはしない。
甘く優しく誘い、魅了し、男が彼女を離し難くなるのを待ち受ける。そして、だいたいのファム・ファタルたちは、一人にとどまらず他の男の影が必ずちらつき(カルメンもそう)、男はそれを感じ取ると嫉妬に燃えて、ますます彼女を離したがらなくなる。
彼女らが男にとって必要不可欠な存在、神的か魔的かに関わらず、特殊な存在となったところで、金銭も地位も名誉も奪い尽くして、総ての底へいざなっていく。
そして、彼女ら自身は、さっさと次の獲物へ取りかかり、似た行為を繰り返して行くが、まぁだいたいの物語で彼女ら自身も破滅していく。その最後はどうも、因果応報でなければ腑に落ちぬ、とでも言うかのように取ってつけた感のあるものも無きにしもあらずだが。
カルメンは死ななければならなかったと思うけれど、ルルの没落ぶりは納得いかないし(さっさと乗り換えろ)、ナナは、あのまま成功するのもアリだと僕は思う。
こういった女性像、これは女性像のステレオタイプ化であり、女性を型にはめて男性が勝手に恐れつつも欲望するという、はたから見れば「勝手にしろよ」と思わないでもない動機に起因する訳だが、そういった女性が登場する、あるいは主役を張る作品に魅力的なものが多いのも事実。また、そういう人為的に作られた自然でない女性像というものそのものが魅力的なのも、共感できる。
何故、こんな事を言い出したのか、というと、今後の記事のための予備知識として、あるいは僕の中で簡単にまとめてみたかったという程度の意味合い。
ドイツ語圏文化論に片足突っ込んだ時、シュルレアリスムに腰を据えた時に、この「致命的な運命の女」に取り組む事を余儀なくされた僕は、今度からちょっとずつ彼女らについて語りたい、できる事ならば、ファム・ファタルの構造について考えて行きたいと思う所存。
乞うご期待。
コレで卒論かけたらいいなーw
2007.12.24 ▲
莉子さんのFatal Doseでも話が出てたので、せっかくだから。
新約聖書の冒頭、洗礼者ヨハネのあたりでちらりと登場する、サロメ。彼女はユダヤの王女で、実は聖書には名前は出てきてない。他の文献から、同一人物であろうと推測されるにすぎない。らしい。井村君江先生の著書からの知識だから、怪しさ全開。
でも、新約に出てこないのはほんと。四福音書はさすがにすべて読みました。
まぁ、何にせよ、聖書に出てくるような彼女は、別にヤンデレじゃない。
問題は、アレだ。オスカー・ワイルドの『サロメ』だ。
ユダヤの王女サロメは、ヨカナーンに恋をし、ヨカナーンに触れる事、口づける事を望みながらも、拒まれる。
ヨカナーンは、救世主イエスの道を整えたと言われる、洗礼者ヨハネ。ヨカナーンは、エリヤ(預言者)の再来とされて大いに騒がれ、それを恐れた王に幽閉されていた。
ここで彼女はどうしていいか判らなくなるんだろうな、と思うんです。
というのも、まず、おそらく彼女は、それまで彼女の望みは拒まれた事が無かったと思われること。彼女は王女という立場にあり、また、彼女は非常に美しく、作中でヘロデ王に「舞の代償にこの国の半分をやってもいい」と言わしめるほどなのだから。
もう一つは、彼女は、自分がヨカナーンに恋をしたという事すら、よくわかっていないように思われること。ただヨカナーンに、何日も地下での幽閉に耐えたにも関わらず美しいままのヨカナーンに、触れてみたかった。
サロメにとってヨカナーンは、生まれて初めて覚えた感情の対象。特別な存在。
しかし、ヨカナーンにとって、サロメは天国からかけ離れ、現世を享楽する堕落した存在。
サロメは、純粋で無邪気にも関わらず、穢れた存在と罵られ、邪な誘惑とされる。
そして、ヨカナーンは、聖なるもの。誘惑に決して屈せぬ存在。
相容れる事は決して無い。
望みが叶わなかった事など無く、世間知らずで、上記のような自分の事も相手の事も把握していない、幼く純粋で無邪気な彼女は、短絡的に考えたんでしょうね。
首だけになってしまえば、もう私を罵らない。私を拒まない。私を受け入れるはずだ。って。
それで、ヘロデ王の「舞を舞えば何でもやろう」という言葉に乗り、舞の代償にヨハネの首を要求する。
綸言汗の如し。王は自らの発言を覆す訳にはいかず、ヨカナーンの首を截らせ、銀の皿に見立てた銀の盾にその首を載せて、サロメに与える。
サロメは歓喜と共にヨカナーンに口づけ、語りかける。しかし、彼女が生まれて初めて口づけた男、ヨカナーンの唇はもう冷たい。
ほらね、発想が病んでる!
ウィキペディアの「ヤンデレ」の項を読んでると、七面倒くさいごたくが並んでるけれど、要は「異常なくらいデレ」なら、それで「ヤンデレ」と呼んで申し分ないんだろう?
それに加えて相手のヘタレなり何なりの要素が絡んでくれば、なお適切になるだろうけれど、ヨカナーンは決して彼女を愛さないのだから、優柔不断なヘタレではありえないね。
まあ、とりあえず、サロメはヤンデレ。
新約聖書の冒頭、洗礼者ヨハネのあたりでちらりと登場する、サロメ。彼女はユダヤの王女で、実は聖書には名前は出てきてない。他の文献から、同一人物であろうと推測されるにすぎない。らしい。井村君江先生の著書からの知識だから、怪しさ全開。
でも、新約に出てこないのはほんと。四福音書はさすがにすべて読みました。
まぁ、何にせよ、聖書に出てくるような彼女は、別にヤンデレじゃない。
問題は、アレだ。オスカー・ワイルドの『サロメ』だ。
ユダヤの王女サロメは、ヨカナーンに恋をし、ヨカナーンに触れる事、口づける事を望みながらも、拒まれる。
ヨカナーンは、救世主イエスの道を整えたと言われる、洗礼者ヨハネ。ヨカナーンは、エリヤ(預言者)の再来とされて大いに騒がれ、それを恐れた王に幽閉されていた。
ここで彼女はどうしていいか判らなくなるんだろうな、と思うんです。
というのも、まず、おそらく彼女は、それまで彼女の望みは拒まれた事が無かったと思われること。彼女は王女という立場にあり、また、彼女は非常に美しく、作中でヘロデ王に「舞の代償にこの国の半分をやってもいい」と言わしめるほどなのだから。
もう一つは、彼女は、自分がヨカナーンに恋をしたという事すら、よくわかっていないように思われること。ただヨカナーンに、何日も地下での幽閉に耐えたにも関わらず美しいままのヨカナーンに、触れてみたかった。
サロメにとってヨカナーンは、生まれて初めて覚えた感情の対象。特別な存在。
しかし、ヨカナーンにとって、サロメは天国からかけ離れ、現世を享楽する堕落した存在。
サロメは、純粋で無邪気にも関わらず、穢れた存在と罵られ、邪な誘惑とされる。
そして、ヨカナーンは、聖なるもの。誘惑に決して屈せぬ存在。
相容れる事は決して無い。
望みが叶わなかった事など無く、世間知らずで、上記のような自分の事も相手の事も把握していない、幼く純粋で無邪気な彼女は、短絡的に考えたんでしょうね。
首だけになってしまえば、もう私を罵らない。私を拒まない。私を受け入れるはずだ。って。
それで、ヘロデ王の「舞を舞えば何でもやろう」という言葉に乗り、舞の代償にヨハネの首を要求する。
綸言汗の如し。王は自らの発言を覆す訳にはいかず、ヨカナーンの首を截らせ、銀の皿に見立てた銀の盾にその首を載せて、サロメに与える。
サロメは歓喜と共にヨカナーンに口づけ、語りかける。しかし、彼女が生まれて初めて口づけた男、ヨカナーンの唇はもう冷たい。
ほらね、発想が病んでる!
ウィキペディアの「ヤンデレ」の項を読んでると、七面倒くさいごたくが並んでるけれど、要は「異常なくらいデレ」なら、それで「ヤンデレ」と呼んで申し分ないんだろう?
それに加えて相手のヘタレなり何なりの要素が絡んでくれば、なお適切になるだろうけれど、ヨカナーンは決して彼女を愛さないのだから、優柔不断なヘタレではありえないね。
まあ、とりあえず、サロメはヤンデレ。
2007.12.23 ▲
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人間と感情的な部分で深く関わりたくなくて、ある人に悲しい思いをさせてまして。
僕としては、こういう風に生きてる時の方がすごく楽です。意俊也。65DaysOfStatic先程のコメントは私信についてのものです。桜居65DaysOfStaticもし見当違いなことを言っていたらごめん。
君は書くべきだ。書かずにはいられないのなら書くべきだ。その衝動に正直になるべきだ。誰のためでもなく自分のために。そのと桜居