| Home |
7日か8日に引っ越します。そのため、現在、部屋が物凄いことになっております。誰か助けて。
自分の本は殆ど売りさばくか箱詰めしてしまったので、図書館の本しか読む物がないんですけど、まったくさっぱり引越し作業の気分転換になりゃしません。
なんせ、ベンヤミン概説本と寺山修司の身体論っぽいのとショシャナ・フェルマンの言語学にバタイユ『純然たる幸福』……身体も頭も疲れてんのに、更に頭が疲れます。嗚呼。
いい加減、言語学とか哲学をふらふらしてないで、純然たる幸福ならぬ純然たる美術史に足を突っ込まねばならないんだろうなぁ。ていうか腰か胸か首か頭までどっぷり行かねばならないんだろうなぁ……面倒いなぁ……多分、僕は図像解釈学は嫌いなんですよきっと。(ぇ)
だって、「香油壺を持った長い髪を結わない女性はマグダラのマリア」とか「この女性は右手に車輪を持ってるから殉教者カテリナ」とかの決まり事を用いて絵解きをしてくって、確かに推理小説のような楽しさはありますけど、資料と史料さえ揃ってれば誰にでも出来る事じゃないすか。自分の残り2年を賭けて研究したいとは、あまり思えない。
……それに、「翼を持つ少年はアモルかクピド。さぁこの絵に描かれてるのはどっちでしょう?」ってどっちでもいいよ!!とか叫びたくなりませんか。
そんなことより、美術と社会との関わりの方に余程興味をそそられる。いや、勿論、図像解釈学も美術と社会の関わりについての学問です。しかし、過去の社会じゃなくて、近現代の美術の在り方を問いたい。著作権法なんかを布かないと作品と作家を保護できない、その上、その法が破られることも珍しくない、パトロンなき時代の芸術。貴族と職人の間にある「芸術」ではなく、ブルジョワと商人と「自分の身とプライドを切売りする人」の三者の「芸術」。……ははは、「芸術」も「芸術家」も実在しないんですよ、きっと。
それで今度はベンヤミンに突っ走ってベルメールを放り出すのか、という訳では、決してないんです。
ベンヤミンは、複製技術、写真などが『芸術』にどのような影響を及ぼしたか、多くをものしている社会学者だか哲学者だか何だか知らないけど思想家で、『写真小史』なんて著作も残してる。
そして、僕が好きな芸術家、ハンス・ベルメールやアルフォンス・ミュシャは、どちらも好んで写真という技術を用いた。ミュシャは飽くまでポスターや絵画の資料として用いてたんですが、ベルメールは写真機を窃視の道具のように扱い、また、被写体を完結した世界に閉じ込める為にそれを用い、そしてその結果である写真、幾らでも複製可能なものを『作品』としていたんですね。
その二人のあいだには、四半世紀ほどの差しかないのに、同じ『写真』が、『資料』にしかなりえない状況と『作品』になりうる状況、大きな差がある。その違いは、とても面白い。
そんな訳で、ベンヤミン。
ベンヤミンの概説本をちらちら見ながら、『美術小論』の推敲しようと思ってたのに、何だか具合が悪いです。
此処最近ずっと具合悪いなぁ……。その上、食べ物を受けつけ難い。人間の食べ物らしい食べ物が、食べたくない。自分が一体、何を食わされているのか分からなくなる。そんで、「この食べ物には肉が含まれている」とか、とか考えだすと吐気を覚える。
別に、「肉の生産を減らせばその分の余剰穀物で後進国の云々……」なんて人道的なハナシじゃないっすよ。後進国の飢餓とか、環境汚染とか、先進国が後進国を搾取するという構造をぶち壊さない限り解消しねぇし、そんなん核戦争でも起きなきゃムリだっての。エコ? 何ソノ偽善? ムダな抵抗っていうんだよ、ソレ。仮に効果があっても、その恩恵に与れるのは先進国の人間だけじゃねぇ? 略奪者が偉そうなクチ利くなよな? という非人道的な人間ですから、僕。
そうじゃなくて……これには……いきものの、残骸が、屍骸が、含まれている……僕は……屍体を喰っている……という軽くサイコな感じで。
そのせいであんまり食べられないし、食べても吐気が悪化するし。摂食障害もどきを過去に体験した僕にとっては、リバースなんてお手の物なので、ついうっかり、戻しすぎます。頑張って食べた意味がなくなるやん。
嗚呼目眩がしてきた。
自分の本は殆ど売りさばくか箱詰めしてしまったので、図書館の本しか読む物がないんですけど、まったくさっぱり引越し作業の気分転換になりゃしません。
なんせ、ベンヤミン概説本と寺山修司の身体論っぽいのとショシャナ・フェルマンの言語学にバタイユ『純然たる幸福』……身体も頭も疲れてんのに、更に頭が疲れます。嗚呼。
いい加減、言語学とか哲学をふらふらしてないで、純然たる幸福ならぬ純然たる美術史に足を突っ込まねばならないんだろうなぁ。ていうか腰か胸か首か頭までどっぷり行かねばならないんだろうなぁ……面倒いなぁ……多分、僕は図像解釈学は嫌いなんですよきっと。(ぇ)
だって、「香油壺を持った長い髪を結わない女性はマグダラのマリア」とか「この女性は右手に車輪を持ってるから殉教者カテリナ」とかの決まり事を用いて絵解きをしてくって、確かに推理小説のような楽しさはありますけど、資料と史料さえ揃ってれば誰にでも出来る事じゃないすか。自分の残り2年を賭けて研究したいとは、あまり思えない。
……それに、「翼を持つ少年はアモルかクピド。さぁこの絵に描かれてるのはどっちでしょう?」ってどっちでもいいよ!!とか叫びたくなりませんか。
そんなことより、美術と社会との関わりの方に余程興味をそそられる。いや、勿論、図像解釈学も美術と社会の関わりについての学問です。しかし、過去の社会じゃなくて、近現代の美術の在り方を問いたい。著作権法なんかを布かないと作品と作家を保護できない、その上、その法が破られることも珍しくない、パトロンなき時代の芸術。貴族と職人の間にある「芸術」ではなく、ブルジョワと商人と「自分の身とプライドを切売りする人」の三者の「芸術」。……ははは、「芸術」も「芸術家」も実在しないんですよ、きっと。
それで今度はベンヤミンに突っ走ってベルメールを放り出すのか、という訳では、決してないんです。
ベンヤミンは、複製技術、写真などが『芸術』にどのような影響を及ぼしたか、多くをものしている社会学者だか哲学者だか何だか知らないけど思想家で、『写真小史』なんて著作も残してる。
そして、僕が好きな芸術家、ハンス・ベルメールやアルフォンス・ミュシャは、どちらも好んで写真という技術を用いた。ミュシャは飽くまでポスターや絵画の資料として用いてたんですが、ベルメールは写真機を窃視の道具のように扱い、また、被写体を完結した世界に閉じ込める為にそれを用い、そしてその結果である写真、幾らでも複製可能なものを『作品』としていたんですね。
その二人のあいだには、四半世紀ほどの差しかないのに、同じ『写真』が、『資料』にしかなりえない状況と『作品』になりうる状況、大きな差がある。その違いは、とても面白い。
そんな訳で、ベンヤミン。
ベンヤミンの概説本をちらちら見ながら、『美術小論』の推敲しようと思ってたのに、何だか具合が悪いです。
此処最近ずっと具合悪いなぁ……。その上、食べ物を受けつけ難い。人間の食べ物らしい食べ物が、食べたくない。自分が一体、何を食わされているのか分からなくなる。そんで、「この食べ物には肉が含まれている」とか、とか考えだすと吐気を覚える。
別に、「肉の生産を減らせばその分の余剰穀物で後進国の云々……」なんて人道的なハナシじゃないっすよ。後進国の飢餓とか、環境汚染とか、先進国が後進国を搾取するという構造をぶち壊さない限り解消しねぇし、そんなん核戦争でも起きなきゃムリだっての。エコ? 何ソノ偽善? ムダな抵抗っていうんだよ、ソレ。仮に効果があっても、その恩恵に与れるのは先進国の人間だけじゃねぇ? 略奪者が偉そうなクチ利くなよな? という非人道的な人間ですから、僕。
そうじゃなくて……これには……いきものの、残骸が、屍骸が、含まれている……僕は……屍体を喰っている……という軽くサイコな感じで。
そのせいであんまり食べられないし、食べても吐気が悪化するし。摂食障害もどきを過去に体験した僕にとっては、リバースなんてお手の物なので、ついうっかり、戻しすぎます。頑張って食べた意味がなくなるやん。
嗚呼目眩がしてきた。
2007.04.04 ▲
| Home |

人間と感情的な部分で深く関わりたくなくて、ある人に悲しい思いをさせてまして。
僕としては、こういう風に生きてる時の方がすごく楽です。意俊也。65DaysOfStatic先程のコメントは私信についてのものです。桜居65DaysOfStaticもし見当違いなことを言っていたらごめん。
君は書くべきだ。書かずにはいられないのなら書くべきだ。その衝動に正直になるべきだ。誰のためでもなく自分のために。そのと桜居